《麻布七不思議の痕跡を巡る!》
1.麻布七不思議とは何か?
実際、いろいろな話があり、なかなか定義が難しいのですが、ここは「麻布総合支所」に行き、職員の方に話を伺いました。
地下に連れていってもらうと、「麻布七不思議」と書かれた壁画のようなものがありました。
(一)永坂の脚気石
かつてここには五嶋近江守屋敷があり、その門前に「かなめ石(永坂の脚気石)」がありました。
この石に塩を供えてお願いをすると足の病気に効くと評判だったらしい。
当時、脚気が流行っていたので人気があったのかもしれません。
その後、道の中央にその石があって通行の邪魔になるので移動しようとしたが、根が深くまで伸びていて、びくともしなかったと伝わります。
明治になって露出部分は取り除かれましたが、その根っこはいまだに土中にあるらしいです。
《ぶらっと「乃木坂~赤坂~六本木」あたりを明治から昭和に起こった事件の痕跡を探索しながらゆっくりと歩きました!》
1.高橋是清翁記念公園
明治時代後期、日本金融界の重鎮で、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家、高橋是清(1854~1936)の邸宅跡。
赤坂御所と向かい合う場所にあります。
邸宅は移築され、現在は都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」で公開されており、私も行ったことがあります。
ガイドの方に「ここが2.26事件で是清公が襲われた部屋です」と案内されたのを覚えています。
「2.26事件」
昭和6(1931)年の満州事変でさらに軍の独走は強まり、内部では皇道派、統制派の対立による緊張が高まっていた。
ただ、いずれも軍が日本を動かして体制を整え、戦争に突入していくという考えに変わりはなかった。
主流派として要職を押さえていた統制派の首領ともいえる永田鉄山軍務局長が1935年、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に白昼、陸軍省内で斬殺される事件が起きる。
相沢は捕らえられ、また、皇道派青年将校が多く配属されていた第一師団が満州に出征することになる。
相沢中佐を救い、昭和維新を断行するのはこの機会しかないと反乱計画を実行に移すことを決めた。
参加した部隊は「歩兵第三連隊900人強」「歩兵第一連隊約450人」「近衛歩兵第三連隊約60人」などで1500人強。
決起将校らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。
天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。(渋谷にあるその現場跡に碑が残っています)
これが2.26事件の概要です。
この事件に参加した「歩兵第三連隊」「歩兵第一連隊」「近衛歩兵第三連隊」の痕跡、および明治から昭和に至る歴史の舞台となった場所を散策しました。
ついに禁断の園、清泉女子大学内にある「旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館」を見学することができました。
実は昨年、平日に当大学を訪れ、旧島津公爵邸を拝見したいと正門前に守衛さんにお願いしたのですが、NGとのことで、「来年の学園祭の頃にお越しください」と言われていたのを思い出して、訪問したのです。
1年越しで見ることができた洋館、素晴らしいです!!
こちらの学生はこの建物を何と教室として使用できるのです、羨ましいです・・
《ぶらっと「芝~三田~高輪」あたりを江戸時代に起こった事件の痕跡を探しながら歩いてみました!》
1.東禅寺
慶長15(1610)年の創建。
安政6(1859)年、日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在。
安政7年1月7日(1860年1月29日)、公使オールコック付きの通訳小林伝吉が門前で2人の侍に殺害されました。
文久元(1861)年、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。
オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。
文久2(1862)年には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺された(第二次東禅寺事件)。
7年に及ぶ英国公使宿館により東禅寺の檀家である諸大名の離檀を招き、経済的な支援もなくなり、境内は荒涼の一途をたどりました。
当時はここから江戸湾が見られたのですね。
1.「下町の華・技と情」
この写真は清澄白河駅内に展示されている作品で、通りがかったときに見つけました。
何と作者は江東区立深川第六中学校の皆さんで、平成9年度の卒業記念制作だそう。
下町の華である花火を囲む装飾にはこの地域の伝統工芸の技法が使われており、外側の枠組みには「江戸更紗」、内側には「江戸彫り」の木板と江戸切子を施したガラスの丸皿が配置されています。
この制作に関しては江東区登録無形文化財の認定をされている職人さん達のご指導を直接受けたそうです。
印象に残る最高の卒業制作ですね。
先日、購入した書籍「龍の袖」を読んで、坂本龍馬の許嫁だった千葉佐那の人生を振り返る機会を得て、また佐那に対する想いが高まり、再度、北千住へ。
約1年前、ここ北千住の「千葉灸治院跡」を訪ねましたが、その時に比べると説明板などが傷んでいて、佐那ファンの私としては、少し複雑な気分。
《佐那と龍馬の出会い、その後》
龍馬が初めての江戸剣術修行で世話になった桶町千葉定吉道場の娘「佐那」との運命の出会い。
しかし、龍馬はおりょうと結婚し、非業の最期を遂げてしまいます。
この「龍の袖」では龍馬の死後、佐那は父定吉の反対を押し切って結婚したことにもふれています。
その間、やはり龍馬のことが心から消えない佐那は、女として幸せになれなかった。
その後、学習院女子部の舎監を経て、ここ千住の町で千葉灸治院を開業して生計を支えながら暮らし、明治29(1896)年10月15日59歳で亡くなりました。
龍馬は姉乙女にあてた手紙の中で、佐那のことを幼なじみの平井加尾より少しよいと伝えています。
また、宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録には、安政3(1856)年に19歳だった佐那が、伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されています。
「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っています。
どんな女性だったのでしょうか?
残念なことに、いまだに、佐那の写真は見つかっていません。
出来ることなら、世紀の発見により写真が出てきて一度お目にかかりたい。。。
先日の江戸城跡を巡る散歩の続きです。
今回は宮内庁ホームページにあった皇居ツアーに参加しました。
普段入れる東御苑とは違う場所を見られるということで期待大です。
実は次回のぶらっと散歩は「江戸城跡」を計画していたのですが、東御苑が大嘗祭の準備のため、9月は工事中で歩けるところが半減することが判明。
止む無く今回はあきらめ、次々回11月後半から12月に「江戸城跡」をやります!
1.巽櫓
桜田巽櫓とも呼ばれ、櫓の中には鉄砲、弓、長柄、持筒などが備えられていました。
江戸城には隅櫓(すみやぐら)だけでも20 基以上ありましたが、現存しているものは桜田二重櫓のほか、富士見(三重)櫓、伏見(二重)櫓の三基のみです。
7月7日のぶらっと内藤新宿の下見を兼ねて新宿を散策。
1.多武峯(とおのみね)内藤神社「駿馬伝説」
徳川家康が江戸入府して、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し、「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったという伝説があります。
その時、清成の乗った馬は南は現在の千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、帰ってきて疲れ果てて死んでしまい、大樫の下に埋められたと伝わります。
後に内藤家の森林の管理役だった中家休昌と木下正敷が文化13(1816)年8月に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てました。
この碑はその後、明治5(1872)年に現在の地に移されたものです。
この馬が頑張らなかったら、内藤新宿はもっと狭い宿になっていて、現在の新宿の賑わいもなかったかもしれません。。。(笑)
広島の酒処「西条」を巡りました。
1.西条酒蔵通り
広島の酒都「西条」にある酒蔵通り。
こちらには7軒の酒蔵が徒歩圏内にあります。
何とこんな狭い範囲に7軒もの酒蔵が密集している街は全国でもここだけとか。
明治・大正・昭和の風情ある酒蔵や建物が残る通りを街発見散歩です。
どんな酒蔵があるのかワクワクです。
本日の江戸時代の痕跡を巡る街歩きは江戸城跡(皇居東御苑)です。
1.大手門
諸大名が威儀を正して登城した江戸城の正門。
慶長12(1607)年、藤堂高虎によって完成した後、元和6(1620)年の江戸城修築の際、伊達政宗によって、高麗門と渡櫓門(わたりやぐらもん)で構成された典型的な枡形門(ますがたもん)になりました。
現存する高麗門は、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、万治2(1659)年に再建されたものです。
江戸時代の渡櫓門は、昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和41年の東御苑開園に伴い、昭和40年から復元工事が行なわれました。
(藤堂高虎)
この江戸城改築の功で慶長13(1608)年には伊予今治藩12万石から津藩22万石に加増転封され、今治城は高虎の養子・藤堂高吉を城代として治めさせています。
家康は藤堂高虎の才能を評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用しています。
城攻めのうまさは逆に防御の堅固さにも通じる。
家康が命じた築城は伏見城・江戸城をはじめ、8か所、城の縄張は加藤清正と並び称されました。
家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えています。
1.新宿歴史博物館「内藤新宿」
慶長9(1604)年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、街道沿いに宿場が整備されました。
甲州街道最初の宿場は、慶長7(1602)年に設けられた高井戸宿でしたが、日本橋から約4里(約16km)と遠かったので不便でした。
このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大変でした。
元禄10(1697)年、幕府に対し、浅草の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出ました。
翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。
日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなりました。
宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などがあてられ、元禄12(1699)年に内藤新宿が開設されます。
宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来します。
内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に区分されていました。
宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めました。
1.拝島
安土桃山時代の本殿が残る熊川神社や玉川上水開削工事跡など、玉川上水と熊川分水に沿って旧熊川村の歴史を巡りながら散策し、最後は江戸時代から続く老舗の石川酒造で、ランチを食すぶらっと散歩です。
【第23回】ぶらっとロマン散歩『奥浅草・吉原跡』をリリースしました。
今回はあの賑やかな浅草ではなく、しっとりした「奥浅草」、その中でも江戸時代、遊郭があった「吉原跡」を巡ります。
江戸文化の発信地でもあった「吉原」。
そこには歌舞伎や芝居の舞台にもなった物語があり、そのエピソードと一緒にその痕跡を散策します。
ランチは昭和レトロなお店の「絶品釜めし」をメインにした和食。
釜めしが炊けるまで、お酒を飲みながら、参加者同士でワイワイガヤガヤやるのも楽しい時間です。
皆様のご参加をお待ちしております。
*ホームページのお申込み機能が復活しました!
皆様には大変ご迷惑をおかけしました、従来通り申込が可能となりましたのでよろしくお願いします。
もちろん、従来通り、facebook、メール、電話でもご参加を承ります。
以上
1.4月28日(日)、ぶらっと東京酒蔵「澤乃井」を実施しました!
当日は珍しく、天候に恵まれ、気持ちよくマイナスイオンを浴びて、ウォーキングをした後、お待ちかねのランチと唎酒をしました。
ご参加頂いた皆さん、朝からテンションmaxで、ほとんどの方は飲む気満々(笑)!!
早速、御嶽駅を出発し、御岳渓谷遊歩道に入ります。
ぶらっと散歩は2016年2月に第1回を開催し、丸3年を経過した2019年2月「上野寛永寺」で、ついに第20回となりました!
これもご参加いただいたお客様、そして、立ち上げ当初にいろいろとご協力いただいた方など、本当に皆様のお陰だと感謝申し上げます。
今、世の中には街歩きのイベントがあちこちで開催されています。
「ぶらっと散歩」はそれらとは一味違った街歩きを目指してやってきました。
表記は、第1回目から第10回目までをまとめたものです。
第5回であの清澄庭園をやっていたのですね。
食事は初めて、ケイタリングのフレンチをご用意しました。
そのときに、使用した紙の使い捨て皿(WASARA)はそのフォルムの特長だけでなく、エコの観点から土に還る素材を使用しているので、最近、海外でも流行っているそうです。
なにやらその先駆けをやることができたようで、よかったです。
第8回の「柴又」。
ご存知「フーテンの寅さん」の聖地です。
そんな昭和の風景を巡りながら、「矢切の渡し」に乗って、ゆったり川を渡りました。
ランチは金曜、土曜、日曜、週末限定営業の超こだわりのそばを、メニューにない「街発見くらぶ限定コース」でいただきました。
店主のそばに対するこだわりがすごく、いろいろな資料を拝見させていただき、興味の尽きない散歩でした。
第9回目の「吉原」。
この会、実は最小人数(2名)の参加者で実施しました。
ランチは私の大好きな「穴子」をお店の大将と相談して刺身を含むフルコースでお出ししました。
私的にはこの時の食事はかなり美味しかったと思っているのですが、参加人数が一番少なくてとても残念でした。
なかなか、思うようにはいかないですね。
facebookでも紹介しています
その2(11~20回)に続く ~
《小学校の修学旅行以来、奈良の法隆寺に行ってきました!》
1.日本最初の世界文化遺産「法隆寺」
用明天皇が自らの病気の平癒を祈って、寺と仏像を造ることを願っていましたが、その実現の前に崩御されてしまいます。
そこで、聖徳太子と推古天皇が用明天皇の遺願を次いで、7世紀初めに創建しました。
金堂や五重塔などは世界最古の木造建築として、知られています。
1993年に姫路城などと共に日本で初めて世界遺産として登録されています。
《夜はディープな街「新宿二丁目」を歩きました!
1.太宗寺
太宗寺はこのあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元(1596)年頃にさかのぼると伝わります。
太宗は次第に住民の信仰を集め、さらに現在の新宿御苑一帯を拝領していた内藤家の信望も得て、寛永6(1629)年の五代正勝の葬儀ではその一切を取り仕切り、墓所もここに置くことになりました。
こうして六代重頼から寺領の寄進を受けてできたのが、現在の太宗寺の由来です。
「閻魔像」
木造で文化11(1814)年に安置されたもの。(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直された)
弘化4(1847)年には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になったそうです。
2019年3月30日10時現在、お申込み機能が故障しています。
お客様には大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
「ぶらっと東京酒蔵散歩」にお申し込みの際は「電話 080-1336-4720」 もしくは「メール hirohide-fujii@sunny.ocn.ne.jp」 でお願い致します。
故障回復次第、また当ブログにてご連絡致します。
/街発見くらぶ 藤井
《ぶらっと東京酒蔵「石川酒造」に行ってきました!》
先月は青梅の先、沢井駅にある澤乃井に行きましたが、今回は石川酒造に行ってきました!
1.石川酒造
東京酒蔵第二弾!
青梅線 拝島駅を出て、徒歩20分、石川酒造に行ってきました。
実は2度目の訪問ですが、前回は随分前なのでよく覚えていません(笑)。
さて、こちらは文久3(1863)年の創業。
多摩川の対岸小川村(現あきるの野市)の森田酒造の蔵を借りて酒造りを始めたそうです。
森田酒造の「八重菊」と姉妹関係ということで当初の銘柄は「八重桜」。
その後、大正8(1919)年に「八重梅」と改め、昭和9(1933)年から現在の『多満自慢』になりました。
1.《ぶらっとお台場「レインボーブリッジと江戸の砲台跡」を歩きました!》
レインボーブリッジは東京都港区芝浦と台場地区を結ぶ吊り橋で、1987年着工、1993年竣工、同年8月26日開通しました。
ここを車で通過するときの眺めは有名ですが、遊歩道があることはあまり知られていないのではないでしょうか。
片道約1.7km、約30分の絶景散歩スポットですが、下を見ると、かなりの迫力で橋げたの高さは52mだそうです。
歩いているとき、気づいたのですが、橋の下を見ると、どうも下半身がスースーするんです。
スカイツリーは建物の中なので大丈夫ですが、ここは橋の上、風は強いし、恐怖を感じます。
高所恐怖症かなぁ(^ω^)・・・
ギリギリの場所まで行ってスマホで写真を撮る、これが結構難しいんです。
ヤバいです・・(笑)
《ぶらっと「飯田橋~九段下」あたりを幕末の痕跡を探しながら歩いてみました!》
1.江戸城牛込門跡
牛込見附は上州道に通じる交通の要所であり、神楽坂通りのまわりに多くの旗本家臣などを役職ごとに住まわせた組屋敷から江戸城への登城道でした。
外堀が完成した1636年に阿波徳島藩蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。
これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。
もしも、石垣の上の建物も残っていたら、神楽坂の雰囲気がちょっと変わったものなったかもしれませんね。
《ぶらっと酒蔵「澤乃井」に行ってきました!》
1.澤乃井
青梅線 沢井駅を出てすぐ、小沢酒造(澤乃井)に、呑兵衛の友人と一緒に行ってきました。
私は2度目ですが、酒好きの友人は初めてなので前日からワクワクだったようです(笑)。
さて、こちらは元禄15(1702)年創業、300年以上の老舗酒蔵。
このあたりは、その昔「沢井村」と呼ばれており、その地名に因んで命名されたとあります。
「沢井」とは、豊かな名水が沢となって流れるところからつけられた地名。
澤乃井のマークに沢蟹もついています。
《旧東海道の痕跡を巡るディープ散歩》
品川~大森周辺でを江戸を感じられる場所を巡りました。
1.品川寺「銅造地蔵菩薩坐像」
弘法大師空海を開山とし、大同年間(806 – 810年)に創建されたと伝わります。
スイス・ジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあります。
「梵鐘のエピソード」
明暦3(1657)年の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進と言われています。
この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝わりますが、その後、所在不明となっていました。
大正8(1919)年、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始。
外務大臣幣原喜重郎ほかの尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5(1930)年、同市の好意により品川寺に返還されました。
平成3(1991)年には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られ、品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となりました。
私はスイス ジュネーヴに行ったことはありませんが、この梵鐘はスイス帰りなんですね。
2月11日(日)ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」を実施しました!
本日のメインイベントは寛永寺にある歴代将軍 御霊廟の特別参拝です。
2ケ月前に抽選に申し込み、運よく当たりました!
今回の「ぶらっと散歩」はちょうど20回目。
たまにはこのような珍しい見学もいいかなと思い、企画しました。
実は私自身も初めての参拝で興味深々でした。
ではまず、上野公園からスタート。
《ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺(2/10)」下見の続きです!》
1.旧博物館動物園駅跡『アナウサギ』
前回の下見では中まで入れなかったので、今回は10時に現地に行き、入場券をゲット!
21年と8ケ月ぶりにこの駅は目覚めて、私たちの目にふれています。
入口に展示してあった ”地面に顔がめり込んだうさぎ”
土を掘って巣を作る 『アナウサギ』だそうです・・・(笑)
《ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」(2/10)の下見に行ってきました!》
上野公園を出て東京国立博物館の前を通って黒田記念館の前。
1.旧博物館動物園駅跡
1933年に京成電鉄の駅として開業し、97年に営業停止、2004年に廃止された旧博物館動物園駅。
開業当時、駅舎の建設予定地が御料地だったため、御前会議で昭和天皇の勅裁を受けて建設されたそうです。
開業以降は東京帝室博物館(現 東京国立博物館)や恩賜上野公園の最寄駅として利用されていました。
営業休止後、2018年4月に、鉄道施設として初めて「東京都選定歴史建造物」に選定されました。
2019年2月24日までの金土日曜日限定で内部が公開されています。
しかし、各日10時までに現地に行き、入場券をもらわなくてはならないようです。
外観のクラシカルで荘厳な雰囲気がたまりませんね。。
《幕末維新の痕跡を巡るディープ散歩》
品川周辺で幕末を感じられる場所を巡りました。
1.立会川 北浜川児童遊園「坂本龍馬像」
ペリー艦隊が来航した嘉永6(1853)年、ここ立会川には、土佐藩品川下屋敷があり、その近くに土佐藩が幕府に願を提出し許可を受けて、翌年造った浜川砲台がありました。
その頃、龍馬は藩から許可を得て、江戸で剣術修行中でした。
土佐藩はこの下屋敷警護のため、江戸詰めの武士を動員してあたらせました。
その中に19歳だった龍馬もいて、当時父親へ宛てた手紙には『…異国船所々に来たり候へば、いくさも近き内と存じ奉り候、その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候』と、この当時の龍馬はまだ単純な攘夷に燃える青年でした。
北浜川児童遊園に建てられた2番目のこの龍馬像は、当時、立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現しており、履物もブーツではなく草履を履いています。
また、この像には、高知県桂浜の像が平成11年修復されたときの金属片が溶かし込んであるそうです。