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【番外編】ぶらっと散歩「新吉原跡」を実施しました!

2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」

1.11月25日(月)、【番外編】ぶらっと散歩「新吉原跡」を実施しました!

 

今回は、「吉原を巡ってみたい」という要望を頂戴し、番外編として新吉原跡を巡りました。

というわけで、「平日(月曜)開催、ランチ無し」という内容でぶらっと散歩を実施したのは初めてだったので、少し戸惑いましたが、前回の吉原(2019/6)とは若干異なるコースとなりました。

 


山谷掘公園(2017年当時)
山谷掘公園(2017年当時)

2.山谷掘公園(今戸橋)

 

東武浅草駅前をスタートして約20分。

その間、最初に出来た元吉原(現 人形町付近)の成り立ちからその終焉までを説明。

そうこうしているうちに、山谷掘公園(今戸橋跡)に到着です。

 

しかし、何と、現在工事中!!!

この写真は2017年当時のものですが、工事が終わったらどんな感じになるのでしょうか?

吉原通いのイメージが残るものになればよいのですが・・・

 

山谷掘は江戸初期に掘られたもので、北区音無川を源として、飛鳥山北側、王子権現の下を経て、隅田川に通じていました。

当時、この堀は吉原への通路の一つで吉原通いを別名「山谷通い」とも言ったようです。

堀に沿って船宿や料理屋などが建ち並び、猪牙舟での吉原行きは陸路よりも優雅で「粋」とされました。

 

猪牙舟に乗り、吉原に行くお客になった気分はいかがでしょうか?(笑)

 


3.山谷掘公園説明板(新吉原)

 

元吉原(現 人形町周辺)が次第に江戸の中心地になってきたため、明暦3(1655)年に現在地である千束村へ移転と決まります。


町奉行所から移転の通知を受けたものの、田んぼの真ん中の千束に引っ越しすれば、客の数が減るので先延ばしにしていました。

しかし、明暦3(1657)年1月の明暦の大火に焼き払われ街をあげての引っ越しとなりますが、とりあえずは仮の場所で仮営業をやってから千束に移りました。

 

その引越しのために幕府から出された条件

①営業区域が5割増し(従来二町四方から三町四方に拡大)

②従来の日中営業だけから夜間営業が許可

③山王、神田両大祭の町役が免除

④一万五百両の移転料の下げ渡し

 

なんとも至れり尽くせりの条件だったようです。

  


4.春慶院(高尾太夫墓)

 

高尾太夫は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前。

何代目まで続いたかは、諸説がありますが、この名を名乗った遊女は11人いたといわれ、いずれも三浦屋四郎左衛門方の遊女で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれていました。

 

春慶院にあるお墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾といわれ、幾多の伝説を生んだ二代目高尾太夫の墓といわれ、仙台侯の内命により建てられたと伝わります。

「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の遺詠が刻まれています。

 

11代のうち最も有名で多くの挿話がありますが、陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つですが、その真偽は不明です。


墓所は東京都豊島区巣鴨の西方寺(元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転)。

 

5.東禅寺

 

江戸六地蔵の一つである地蔵菩薩像は奥州街道の入り口として、宝永7(1710)年8月、2番目に建立されました。

像の高さは、2.71メートル、鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造されました。

 

また、銀座の「木村屋總本店」の創業者で、あんぱんの発明者の木村安兵衛とブン夫婦の銅像もあります。

 

6.見返り柳

 

いよいよ、遊廓の入り口まで来ました。

 

遊廓で遊んだ男が、帰り道に、この柳のあるあたりで名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名が付いたそうです。

 

しゃれた名前が、江戸の「粋」を感じます。(笑)

 


7.エモン坂

 

吉原に入る客が大門をくぐる前に、このあたりで身なりを整え、衣裳を直したところから、こう名付けられたと伝わります。

 

外のメイン通りから遊郭内部が見えないようにするために、このようなS字の道になったと言われており、現在もそのカーブが残っています。

 

また、この辺りには、20軒ほどの「編笠茶屋」があり、武士が顔を隠すため、編み笠を借りて吉原に行ったそうです。 

やはり、真っ昼間から吉原へ行くときは武士といえども恥ずかしかったようです。(笑)

 


8.お歯黒どぶ跡

 

遊女の逃亡を防ぐため、吉原の周りには、お歯黒どぶと呼ばれる大溝がありました。

 

新吉原が誕生した初期には、幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には幅2間(約3.6m)、明治36年には3尺(約90cm)の堀が巡らされていたそうです。

 

三本歯
三本歯

9.大黒屋 

 

履物やたばこの商売をされている「大黒屋」さん。

 

何とこちらは、吉原今昔図の大正12(1923)年[関東大震災時」に掲載されているお店なのです。

 

これまでにも何度かお邪魔していましたが、当日は何のアポもしてなかったのですが、快く中に入れて下さり、花魁道中で履く「三本歯(高下駄)」などを見せてくださいました。

 

この下駄を履いて花魁が「外八文字」で歩いていたのかと思うと、感慨深いものがあります。

 


10.吉原弁財天

 

吉原はもともと湿地だった場所に造成されたので、周囲の池を埋め立てて、このあたりで一つの池にしたらしい。

池畔に弁天の祠が祀られましたが、遊女の逃亡防止としての機能もあったようです。

 

昭和10(1935)年には吉原弁財天は吉原神社に合祀されましたが、この弁財天には大正12(1923)年の関東大震災にまつわる悲しい歴史があります。

発生した火災から逃がれようとした遊女は廊の中では逃げ場がなく、このため池に飛び込まざるを得ず、490人が溺死したという悲劇が起こりました。

 

その後、この池はNTT吉原ビル建設時に埋め立てらましたが、弁財天を祀る小社は残され吉原神社の奥宮として、祀られています。

また大震災の慰霊のため、大正15(1926)年に建立された震災殉難慰霊の観音像なども祀られています。 

 


11.浄閑寺(新吉原総霊塔)

 

吉原遊廓の誕生よりも2年早い1655年の創建。

同寺が「投げ込み寺」と呼ばれるようになったのは、1855年の安政の大地震で大量の遊女が死亡した際に、この寺に投げ込んで葬ったことによります。

現在の塔は昭和4年8月に、寛政5(1793)年以来の供養塚を改修し、名も「新吉原総霊塔」としたもの。

 

新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と380余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係の者や大震災で死んだ者を含めた数は25,000人に及びます。

 

その基壇には花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれています。

「幸せ」という言葉に最も縁遠い女性たちの苦しい泣き声が聞こえるようです。 

 

 


12.浄閑寺(小夜衣供養地蔵尊)

 

小夜衣は吉原四つ目屋の遊女。

遊郭の主人に放火の罪をかぶせられ、火炙りにされ亡くなったと伝わります。

 

その後、四つ目屋は何度も火を出したあげく潰れたので、人々は小夜衣の祟りだとして小夜衣供養地蔵尊を祀ったのだと言われています。

 

いつの頃からか、自分の悪い部分とこの地蔵尊の同じ部位を撫でると、具合が良くなるという信仰がおき、顔をなでる人が多かったせいか、最も摩耗しているのは顔のようです。 

 


13.浄閑寺(若紫の墓)

 

この墓に眠っているのは、明治時代の有名な妓楼「角海老楼」の『若紫』という遊女。

この若紫は5年間の年季明けを5日後に控え、自由の身になった後は所帯を持つことを約束した男性がいました。

 

しかし彼女には5日後はやってきませんでした。

 

というのも、偶然、登楼した客の凶刃に倒れてしまったのです。

 

若紫に惚れていた客だったのか、トバッチリか理由は判らないのですが、幸せがもうすぐ手の届く所に来ていたのに、その夢は、はかなく消えてしまったのです。

 

22歳という若さで亡くなってしまった若紫を哀れと思い、角海老楼が法名「紫雲清蓮真女」を号し、手厚く葬むりました。

 

墓石の上部には「角海老」の文字がくっきりと残っています。 

 

 

浄閑寺の探索を最後に、これで番外編「ぶらっと散歩(新吉原跡)」は無事終了、お疲れ様でした。