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ぶらっと散歩(2/10)の下見で「上野」に行ってきました!

《ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」(2/10)の下見に行ってきました!》

 

上野公園を出て東京国立博物館の前を通って黒田記念館の前。

 

1.旧博物館動物園駅跡

 

1933年に京成電鉄の駅として開業し、97年に営業停止、2004年に廃止された旧博物館動物園駅。

開業当時、駅舎の建設予定地が御料地だったため、御前会議で昭和天皇の勅裁を受けて建設されたそうです。

 

開業以降は東京帝室博物館(現 東京国立博物館)や恩賜上野公園の最寄駅として利用されていました。

 

営業休止後、2018年4月に、鉄道施設として初めて「東京都選定歴史建造物」に選定されました。

 

2019年2月24日までの金土日曜日限定で内部が公開されています。

しかし、各日10時までに現地に行き、入場券をもらわなくてはならないようです。

 

外観のクラシカルで荘厳な雰囲気がたまりませんね。。 

 

 


2.上野大仏

 

寛永8(1631)年、上野大仏は、越後国 村上藩主・堀直寄(ほりなおより)が戦死者慰霊のため、上野にあった自邸内に釈迦如来像(粘土を漆喰で固めたもの)を造立しました。

 

この釈迦如来像は、正保4(1647)年の丹沢を震源とする地震で倒壊。

 

その後、何度か再建・倒壊を繰り返した後、明治8年、寛永寺の広大な寺地が上野恩賜公園として整備され、上野大仏の大仏殿は取り払われてしまいます。
その後、関東大震災(大正12年)で被災し、頭部が落下。


胴部以下は寛永寺が保管しますが、資金難で再建ができずに昭和15年、軍への金属供出で胴部も失われてしまいます。

 

昭和47年、寛永寺に安置されていた大仏の顔面部をレリーフとして安置されています。

 

幾多の災難を乗り越えた大仏は、パワースポットとしても注目されており、大仏パゴダの志納所では、大仏の顔をかたどった上野大佛合格祈願お守りもあります。これ以上落ちない・・・(笑)


顔面だけ保存された大仏は、「自由に触ってください」とあり、大仏様のご尊顔にタッチで、ご利益も倍増するかもしれません。。。

 

 


3.谷中霊園(徳川慶喜墓、勝精墓)

 

徳川慶喜の墓については前回の上の歴史散歩でご報告しましたが、「徳」の字が少し違うことに気づきました。

「德」の字に関する話があるようです。

 

これは2月10日のぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」で詳しくお話します。

 

「勝 精(くわし)」

明治21(1888)年、徳川慶喜の十男として誕生。母は新村信。

 

明治25(1892)年、勝海舟は嫡子小鹿(ころく)が早世したため、徳川慶喜に精との養子縁組を申し入れます。

徳川慶喜は精の養子入りを承諾し、精は早世した勝小鹿の娘である伊代子の婿として、明治32(1899)年1月20日に勝家に養子入りする。

養父海舟の死去に伴い、同年2月8日に家督を相続し、伯爵を授爵しました。

 

妻の伊代子が34歳で死去すると、水野まさを妾に・・・

 

精は昭和7(1932)年7月11日44歳で死去。

当初は脳溢血とされていたようですが・・・・

7月16日の東京朝日新聞には「勝海舟翁の養嗣子愛妾と心中を遂ぐ」という記事が掲載されています。

 

妻・伊代子は、本人の希望で夫と同じ墓に入りたくないとの遺言により、最初は青山の勝家の墓に入ったようです。

 

勝海舟の妻も娘の伊代子さんにしても、夫と同じ墓に入りたくないと遺言してます。

2代続けて、夫の女癖の悪さに泣かされていたんでしょうね。。。(泣)

 

 


4.旧因州池田藩屋敷表門

 

池田家上屋敷表門(黒門)は元々旧大名小路(現 丸の内界隈)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。

 

明治時代、当時の東宮御所正門として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29(1954)年、東京国立博物館の敷地内に移築されました。

 

創建の時期は明らかでありませんが、形式・手法から見て江戸末期と考えられます。

屋根は入母屋造で、左右に向唐破風(からはふ)屋根の番所を備え、大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるものです。

 

 


5.すし乃池のお土産

 

本日下見のメイン、すし乃池のお土産(穴子寿司)。

 

待っている間、たこのふっくら煮、穴子の肝煮をつまみに熱燗でしっぽりと・・・

 

土産の穴子寿司を家で食べてみました。

ふわトロの食感と炙った表面の香ばしさに、カミさん超絶賛でした!!(笑)