【第24回】ぶらっと内藤新宿「四谷~新宿」を実施しました!

太宗寺「奪衣婆像」
太宗寺「奪衣婆像」

1.7月7日(日)、【第24回】ぶらっと内藤新宿「四谷~新宿」を実施しました!

 

当日は朝から雨。

2日前の天気予報では土曜が雨で、日曜の朝にはあがる予定だったのに・・・(泣)

しばらくすれば止むだろうと甘い期待を持ってスタートしましたが、無情にも雨は一向に止む気配無く、終日降っていました。

 

読みの甘さを反省しました。。。

 


2.於岩稲荷田宮神社

 

ここ四谷左門町にあった御先手組同心田宮家の邸内にあった社。

初代田宮又左衛門の娘 お岩が信仰し、養子 伊右衛門と家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として人々の信仰を集めました。

 

一方、鶴屋南北の戯曲「東海道四谷街道」は文政8(1825)年に初演されましたが、実際のお岩さんは、約200年前の寛永13(1636)年に亡くなっており、夫婦仲は円満で、戯曲のストーリーとは全く違ったようです。

 

なぜ、事実と異なるこのようなストーリーが出来たのか・・・

鶴屋南北は以前から「於岩稲荷」を知っていて、お岩さんの没後約200年経っても、根強い人気があることに注目、人気のある「お岩」の名前を使った歌舞伎にすれば、大当たりすると思い、過去の他事件の内容と組み合わせ、全くの空想で脚本を作ったようです。

「東海道四谷怪談」と言う題名は事実とは無関係であることを示しています。

 

当稲荷は明治12(1879)年に火事で焼失し、市川左団次の勧めもあって新富座など芝居小屋の近くの中央区新川に移転します。

その後、戦後の昭和27(1952)年に四谷の旧地に神社を再建し、現在に至っています。

 

東海道四谷怪談を演じる役者さんたちは、現在でも当稲荷神社を参拝しているようです。 

 


3.荒木町の原点はお殿様「高須松平藩 四兄弟」

 

高須松平家は、尾張徳川家の分家で支藩、尾張徳川本家に嗣子(しし)がない場合は、当主として養子を出す家柄で、その屋敷がここ荒木町にありました。

 

十代当主義建(よしたつ)の二男徳川慶勝(よしかつ)は尾張徳川家を継いで十四代当主。

 

五男義比(よしちか)は高須藩第11代藩主、その後、慶勝が隠居処分にされた後、尾張十五代当主 徳川 茂徳(もちなが)、さらに、慶喜の跡を継いで一橋家十代当主 一橋茂栄(もちはる)となりました。

 

七男 松平容保(かたもり)は会津松平家の養子になり、八男松平定敬(さだあき)は桑名松平家へ養子に入ります。

これら四人の兄弟を「高須四兄弟」と呼びます。

 

幕末維新の激動の中で生きた四人は、片や明治新政府に協力し、片や「朝敵」の汚名を着て敵味方に別れました。

 

その四人が明治11年に一堂に会して、銀座の写真館で撮影した写真が荒木町のとんかつ屋「鈴新」の脇に貼ってあります。

この写真の風貌には四人のこれまでの生き様が刻み込まれていて、歴史の重みが感じられます。

当日、4人はどのような話をしたのでしょうか?

 

「鈴新」のおやじさんは大変な荒木町LOVEで、高須松平家の歴史に大変詳しく、ご自分でいろいろな資料を作っておられます。

お店の前には高須松平家の菩提寺「臥龍山行基寺」にあった『菊輪葵紋瓦』が飾ってあります。

 


4.津の守弁財天・策の池

 

江戸時代、このあたり一帯に高須松平家(松平摂津守)の屋敷があり、邸内に滝があったことから、摂津守の一字を略して「津の守の滝」と呼びました。

 

また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があり、滝壺の池を「策の池」と呼びました。

 

江戸時代の古書「紫の一本」によれば、徳川家康がタカ狩りの時、近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ4mに及ぶ滝となり、この池に注いでいたので「策の池」と呼ばれました。

 

明治5(1872)年、新政府による廃藩置県の発令で、この池が開放され、明治7年荒木町として住民の町になりました。

天然の滝があることが評判になり、池の周辺に茶屋が開店し、明治6年、この滝の上に「桐座」という芝居小屋ができたのをきっかけに、料理店が次々と開店し、これが後年の「荒木町三業地」に発展しました。

 

このようにして周辺地が市街地化されたためか、滝の水量が減り、池の周辺は急速に寂れていきました。

現在では湧き水は減って池も埋まり、この滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しているだけですが、何とも言えない風情があります。

 

5.四谷大木戸跡

 

「新宿のルーツ」

内藤清成は浜松で、徳川家康の小姓を務め信任を得て、当時2歳だった秀忠の傅役(ふやく)を任されました。

 

天正18(1590)年、秀吉の命で家康が関東に移封された時、清成は鉄砲隊を率いて、先陣を務め、国府路(甲州街道の原型)と鎌倉街道の交差(現 新宿御苑前駅辺り)に武田、北条の残党から江戸を守るため、陣を敷き、遠見櫓を築きました。(鉄砲百人組)

 

鷹狩の時、家康から「馬で乗り回した土地をすべて与える」と言われ、清成の白馬は一気に駆け巡り、千駄ヶ谷から代々木・大久保・四谷に至る範囲を走り、広大な土地を拝領しました。

しかし、その白馬は家康の目の前に戻った瞬間に疲れ果てて息絶えたという伝説があり、多武峯内藤神社にはこの駿馬の碑があります。

 

 

「四谷大木戸」

幕府は元和2(1616)年、この年は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した翌年で、豊臣の残党の江戸入りを防ぐ目的で、内藤氏の陣を廃止し、太宗寺の近くに関所である「四谷大木戸」を設置しました。  

 

 


6.水道碑記

 

承応3(1654)年、玉川上水は江戸の飲料水を確保するために、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟により多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの約43kmの区間を、土を掘り抜いただけの開渠で造られました。

終点である四谷大木戸にあった水番屋が水質・水量の異物の監視等を行い、玉川上水を厳重に管理していました。

 

四谷大木戸から江戸市中へは、石や木で造られた水道管を通じて、水が供給され、淀橋浄水場が完成した明治34(1901)年頃まで、玉川上水は、江戸・東京の人々の貴重な水源でした。

 

現在、跡地には東京都水道局新宿営業所があり、江戸時代から令和まで、この地は東京の水の管理に携わっています。

 


7.新宿御苑、玉川上水・内藤新宿分水遊歩道

 

降り続く雨のため、足元は良くなかったのですが、皆さんに歩いていただき、当時の玉川上水の雰囲気を味わってもらいました。

 

 


8.太宗寺

 

「銅造地蔵菩薩坐像」

深川の地蔵坊正元が発願した江戸六地蔵の3番目として正徳2(1712)年の造立されました。

東京都指定有形文化財(彫刻)
夏目漱石が子供の頃、これに登って遊んでいたらしい。。。

 

「閻魔大王」

新宿区指定有形民俗文化財で都内最大の閻魔大王像。
「内藤新宿のお閻魔さん」と呼ばれていました。

弘化4(1847)年、酔っ払いが閻魔像の目を盗む事件が起こりました。

 

「奪衣婆像」

明治3(1870)年の作と伝わります。

奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、軽重を計るとされ、右手にはぎ取った衣服を持っています。

また、衣をはぐところから内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。

 

「塩かけ地蔵」

「東京御利益案内」によるとおできにご利益があると記載されています。

塩をもらって帰り、患部に塩を塗り込むと、おできが治るそうです。

塩で石がとけて地蔵の顔が変形した様を見ると、お肌がきれいになりそうな気がします(笑)。

 


9.新宿に牧場があった??

 

江戸時代の内藤新宿にあった遊郭が明治になって、新宿2丁目に移転するのですが、その場所に、耕牧舎という、芥川龍之介の父親(新原敏三)の牧場がありました。

その牧場は、現新宿2丁目から靖国通りに面して成覚寺の西側あたりでした。

ホルスタイン種を飼育する約3000坪の牧場だったようです。

 

そこへ、明治43(1910)年10月、養子に出されていた芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきます。

その年の8月に本所の家が水害に遭い、9月に龍之介が第一高等学校に入学したことによると言われています。

大正3(1914)年10月、田端に転居するまで高校生活をこの家で過ごしました。

 

その頃、周辺の発展に伴い、牧場の臭気が強く、環境にそぐわないという理由で、警視庁から牧場の移転命令が出て、ついに牧場は廃業となりました。

その跡地は、しばらく放置されて「牛屋の原」と呼ばれ、子どもたちの良い遊び場になったそうです。

 

そして、大正7(1918)年、このあたりは、新宿通り一帯にあった内藤新宿の遊郭の移転先と指定されました。

 

昭和33(1958)年の赤線廃止後、ゴーストタウン化していた街は、人も住んでいなくて家賃も安かったので、ゲイバーを始めたところがあり、その後に続き、「ゲイタウン」となりました。

 


10.成覚寺

 

「子供合埋碑」

万延元(1860)年造立、共同墓地に葬られた石造の飯盛女たちの供養碑。

内藤新宿の旅籠屋によって、飯盛女の共同墓地に建てられました。

「子供」というのは、旅籠の主(楼主や店主)が飯盛女たちを子供と呼んだため。

 

「旭地蔵」

玉川上水で心中した男女らを供養する文化財。

寛政12(1800)年造立された石造の地蔵菩薩像です。

旭地蔵の名は、明治12(1879)年まで玉川上水北岸の旭町(現:新宿四丁目)に安置されていたことに由来します。

 

台座には18名分の戒名が刻まれており、そのうち男女で対になったものが7組あります。

 

この地蔵にお参りすると子どもの夜泣きが治まるとされ、「夜泣地蔵」とも呼ばれました。 

 


11.正受院

 

文禄3年(1594年)、正受乘蓮和尚を開山として創建される。

 

「奪衣婆像(綿のおばば)」

咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣がありました。

 

幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848)年の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなりました。

 

歌川国芳などにより、綿をかぶった奪衣婆を描いた錦絵が多数発行されました。

あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられたそうです。

 

「平和の鐘」

昭和17年(1942年)に太平洋戦争による金属供出のため失われたはずであった鐘。

 

しかし、戦後になってアメリカ合衆国のアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが判明し、昭和37(1962)年には正受院へ返還されました。

このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせています。

 


12.ランチ懇親会「玄海(げんかい食堂)」

 

結局、一日中雨に降られ、すっきりした気分での散策とはなりませんでしたが、やはりお腹は空いてきました。

 

先日、下見をしたときに、メインの丼を選べるようにお願いしてありました。

(1)あまからの特製ダレをかけた「焼き鶏重」

(2)ふわトロの「親子丼」

(3)水たきスープを熱々の石器で温めたご飯の上にかけて食べる「あつあつ鶏飯」

 

皆さんのチョイスは全員が(3)!

やはり、絶品の水たきのスープを熱々のご飯にかけて食べる鶏飯が珍しかったからでしょうか。

スープは鶏の旨味たっぷりでコクがあります。

 

皆さんのチョイスは大正解だと思います(笑)