日本最大の城「江戸城跡(皇居)」をぶらっと散歩!

先日の江戸城跡を巡る散歩の続きです。

今回は宮内庁ホームページにあった皇居ツアーに参加しました。

普段入れる東御苑とは違う場所を見られるということで期待大です。

 

実は次回のぶらっと散歩は「江戸城跡」を計画していたのですが、東御苑が大嘗祭の準備のため、9月は工事中で歩けるところが半減することが判明。

止む無く今回はあきらめ、次々回11月後半から12月に「江戸城跡」をやります!

 

1.巽櫓 

桜田巽櫓とも呼ばれ、櫓の中には鉄砲、弓、長柄、持筒などが備えられていました。

江戸城には隅櫓(すみやぐら)だけでも20 基以上ありましたが、現存しているものは桜田二重櫓のほか、富士見(三重)櫓、伏見(二重)櫓の三基のみです。 

 

 


2.濠の掃除

 

濠に木の葉がいっぱい浮かんでおり、どうするのかなと思っていましたが、偶然、濠を掃除している情景を目にすることができました。

こんなマシーンがあったのですね。

 

 


3.皇居ツアースタートです! 桔梗門(内桜田門)

 

江戸平河城を築いた太田道灌は、日比谷入江に面したこの地に泊船亭を築いていました。
その太田道灌の家紋が桔梗で、桔梗門、桔梗濠の名の由来になっているのです(名の由来は諸説あります)。

 


4.窓明館

 

こちらで参観コースの説明や注意事項などのお話を聞きます。

実はこの「窓明館」の中には、売店が入っているんです!

この紋が入っている煎餅、気持ち的に食べにくかったのですが(笑)、味・食感共に平均以上でした。

 

 


5.富士見櫓

 

東御苑から見るのとは違った角度から見た「富士見櫓」。

どこから見ても真正面に見えることから、「八方正面の櫓」と呼ばれたそうですが、まさにその通りだと感じ入りました。

 

明暦の大火で江戸城天守閣が消失した後、その代わりとなった櫓で、歴代の将軍は両国の花火や品川の海をここから眺めたそうです。

 

 


6.宮内庁庁舎

 

昭和10(1935)年に建築された建物。

戦後、昭和27(1952)年10月から昭和44(1969)年3月まで、三階を仮宮殿として使用されていたそうです。

 


7.長和殿

 

新年及び天皇誕生日の一般参賀がこの広場で行われます。

残念ながら私は来たことがありませんが、この中央バルコニーで天皇陛下のお言葉を一度来て実際にお聞きしたいと思います。

 

テレビで見ると、スゴイ数の人ですが(^ω^)・・・。

 

 


8.二重橋(内側から見た情景)

 

皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋があります。

今回のツアーではそれらを内側から見ることが出来ました。上の写真が「正門石橋」、下の写真が「正門鉄橋」。

 

広場側から見る風景とはまた違った一面を見ることが出来ました。

 


9.伏見櫓 

 

江戸城西の丸の西南隅に建てられた二重櫓。

横には多聞(防御を兼ねた収蔵庫)もあります。

寛永5(1628)年、3代将軍家光の時代、江戸城改修の時、京・伏見城から移築したと伝わります。(諸説あり)

  


10.松の大廊下跡

 

江戸城内にあった大廊下の一つ、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下でした。
廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから、この名前がつけられたといわれています。

 

元禄14(1701)年、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への刃傷事件があったところです。

 

今は雑木林があるだけで、当時の面影を見ることはできません。。

          


11.天守台

 

この天守台は、明暦の大火(1657年)によって寛永度天守が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。 

つまり1606年(慶長11年)に黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台になります。

 

しかし天守そのものの再建は、当時の将軍・徳川家綱の後見役(徳川家光の異母弟)会津藩主・保科正之が「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)と、被災した人たちの救済と江戸の街の復興が先と主張したため、とりやめられました。

 

       


12.汐見坂

 

江戸時代の向こうに令和が・・・このコントラストがたまりません。。

 

汐見坂とは江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道。

江戸城築城当時、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名前の由来です。

その頃、坂の上には、汐見坂門がありました。

また坂の横には白鳥濠があって、堅い防御を備えていたのがよくわかります。

          


13.坂下門

 

西の丸の北側入口にあたり、高麗門と渡櫓門からなる枡形形式の門でした。(手前にある橋は坂下門橋)

西の丸の坂下にあったので、この名がついたといわれています。

 

文久2(1862)年1月に老中・安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場となった場所でもあります。

 

明治に入り、西の丸に皇居が移ると、その重要な入口の一つとして使用され、明治18(1885)年に高麗門が撤去され、明治20(1887)年に渡櫓門のみが角度を90度変えて建て直されました。 

 

現在も宮内庁の出入口(通用門)として利用されていますので、警備が厳重です。

 

          


14.二重橋

 

皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋があります。

 

奥の鉄橋は、慶長19(1614)年架けられた江戸城の西丸下乗橋があった位置にあります。

下乗橋(別名:月見橋)は、青銅製の擬宝珠の欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋脚を立て橋桁を支える構造にするのが困難だったため、橋桁を上下2重にして強度を上げたもの。

そのため、この橋が「二重橋」と呼ばれました。

その後、明治21(1888)年、鉄橋に改修され、さらに昭和39(1964)年、現在の鉄橋(二代目)になり、二重構造ではなくなりました。

 

手前の石橋は、寛永元(1624)年に架けられた木造の西の丸大手橋があった位置にあります。

その後、この大手橋は明治20(1887)年に、石造アーチ橋に改修されます。

二連アーチ構造であることから俗称で眼鏡橋とも呼ばれ、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いようです。

 

そもそも二重橋という名称は正式なものではなく、一般に用いられてきた通称ですが、現在、宮内庁や環境省等においては「二重橋」は正門鉄橋のことを指すとしながらも、「2つの橋の総称としても用いられる」と説明をしています。

 

「二重橋」と言う呼び名にも深いわけがあったのですね。

 

          



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コメント: 2
  • #1

    長谷川勤 (金曜日, 02 8月 2019 06:46)

    とても楽しく拝見しました。NPO法人で『江戸城天守を再建する会』があります。中公新書の『江戸城』によれば、諸大名に大動員をかけて『天下普請』を行いました。慶長期から寛永期までに修築を重ねて『日の本一』の大城郭・大天守が完成されました。しかし。明暦の大火で焼失。時の保科正之は、市民生活の復興優先で、天守は再建されず、今日に至っています。大阪、名古屋の天守閣は街の象徴ともなっています。260年あまりの天下の政治を司った江戸には、天守がない。そろそろ再建して、世界に発信しても良いのではないか。いちど、江戸城天守を再建する会を覗いてみて下さい。

  • #2

    街発見くらぶ 藤井 (金曜日, 02 8月 2019 11:51)

    長谷川さま、貴重なコメントありがとうございます。
    「江戸城天守を再建する会」につきましては、何かで見たことがあります。
    日本一の象徴だった天守再建は、江戸時代から残っているものと、うまく調和を考えながらできるといいですね。
    本丸御殿跡も現在は芝生だけで大奥など、全くイメージがわかないような状態ですが、何か一つでも残っていたらなぁと残念です。
    江戸時代でもその時期によって違う作りの石垣、それぞれ名前が付いたお濠、高麗門、渡櫓門、三重・二重櫓など素晴らしい史跡が残っている江戸城、これが東京のど真ん中に残っているのがスゴイです。
    全国にある城跡も、もちろん歴史的・文化的価値としては素晴らしいものもたくさんありますが、私は丸ノ内の摩天楼と江戸城の石垣・お濠が一緒に見える情景、これが「東京」のイメージの一つではないかと思っています。