【第23回】ぶらっとロマン散歩「奥浅草・吉原跡」を実施しました!

2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
大黒屋に展示されている「三本歯」
大黒屋に展示されている「三本歯」
吉原弁財天「花吉原名残碑」
吉原弁財天「花吉原名残碑」

1.6月9日(日)、ぶらっとロマン散歩「奥浅草・吉原跡」を実施しました!

 

当日は朝から雨、やばいなあと思いながら浅草駅を目指します。

集合地点に着くと、何と雨が止んだ・・・よかった・・。

 

まず、本日の散歩ルートの概要を説明し、最初に、現在の人形町にできた「元吉原」の話からスタートです。

 

(元吉原の開設に大きく関わった「庄司甚内(甚右衛門)」について)

 

徳川家康が関ケ原の戦に出陣すべく、東海道鈴ヶ森八幡宮前の浜辺を通りかかった時、25歳だった甚内が出陣の武運を祈り、目にも鮮やかな赤いたすき姿の美女たちを使って家康一行に煎茶などをふるまったという伝説があります。

 

それから十数年後、甚内は幕府公認を得て、吉原という別世界を作り上げ名主を命じられています。

その場所が現 人形町周辺でした。

そこは葦(よし)が生い茂っており、「葦原」と呼ばれましたが、その後、転じて「吉原」と命名されました。

 


2.山谷堀公園

 

(新吉原の誕生)

その後、次第に吉原が江戸の中心地になったため、明暦3(1655)年に現在地である千束村へ移転と決まりましたが、実際には、明暦3(1657)年1月の明暦の大火に焼き払われるまで同所(現人形町周辺)に存在しました。

 

田んぼの真ん中の千束に引っ越しすれば、客の数が減るので先延ばしにしていましたが、明暦の大火が発生した後、街をあげての引っ越しをしますが、とりあえずは仮の場所で仮営業をやってから千束に移りました。

 

各楼の娼妓は衣装や行列に贅を尽くして浜町河岸から屋形船を仕立て、隅田川をさかのぼり、まるで、妓楼をあげての物見遊山の雰囲気でした。

これを見ようと江戸っ子たちは大川端に集まり、大騒ぎ。

 

以後、日本橋人形町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と呼びます。 

 

(山谷堀)

山谷堀は江戸初期に掘られたものらしく、当時、吉原への通路の一つで、船宿や料理屋などが建ち並び、船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされました。

 

現在は、埋め立てられ遊歩道になっています。

 

皆さんには、大店の主人が猪牙舟に乗ってゆったりと山谷堀をいく気持ちになって歩いてもらいました。

 

 


3.正岡子規の句碑

 

山谷堀公園の途中にある正岡子規の句碑「牡丹載せて 今戸へ歸る 小舟かな」。

 

子規は吉原の常連だったそうです。

吉原からの帰りの猪牙舟の上で、遊女にもらった花を眺めながら、夢の世界から現実へ戻る、そんなふっとした寂しさを表しているのでしょうか。

 

 


4.春慶院「高尾太夫の墓」

 

高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたといわれ、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女でした。

 

春慶院にあるお墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾といわれ、幾多の伝説を生んだ二代目高尾太夫の墓といわれており、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の遺詠が刻まれています。

 

この二代目高尾についてはいろいろな諸説があり、陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、船中で惨殺されたというのはその一つですが、その真偽は不明です。

    


5.東禅寺「銅造地蔵菩薩坐像」

奥州街道の入り口として、宝永7(1710)年8月、江戸六地蔵2番目として建立されました。

像の高さは、2.71メートル、鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造されました。

その横には、銀座の「木村屋總本店」の創業者であんぱんの発明者の木村安兵衛とブン夫婦の銅像もあります。  

 


6.見返り柳

 

遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。

遊廓で遊んだ客が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名前がつきました。

 

なにやら風流ですね。

 

現在「吉原」という地名はないのですが、この交差点にある信号は「吉原大門」とあります。

あと、「吉原交番」の名前も残っています。

 

 


吉原今昔図「大正12年 関東大震災時」
吉原今昔図「大正12年 関東大震災時」

7.大黒屋

 

現在は履物やたばこの商売をされている「大黒屋」さん。

何とこちらは、吉原今昔図の大正12(1923)年[関東大震災時」に掲載されているお店なのです。

 

何度か足を運び、当日、見学したい旨、女将さんにお願いしていましたが、日曜なのでお休みかもしれないと言われていました。

 

当日、お店の前を通ると、突然シャッターが開き、女将さんが顔を出してくれました、何ということでしょう!

覚えていてくださったんですね。

 

中に入るとさらに奥から昭和初期の花魁の写真も出してくださいました。

冒頭の写真「三本歯」(花魁が履いて外八文字の歩き方で花魁道中をする)、部屋履きとそれが掲載されている浮世絵など、どれもリアルな本物で興味津々です。 

 

 


8.一葉記念館

 

一葉は小説を書くかたわら、生活は大変苦しかったので、母と妹と共に、明治26(1893)年、新吉原にも近い下谷龍泉寺町(したやりゅうせんじ)において荒物雑貨駄菓子屋を始めました。

一葉はその間、吉原見物をしたり、店に来る子供達を観察しながら、鋭い人間洞察、社会認識を深めたのでしょう。

 

しかし、商売の才能はあまりなかったのか、売上は思うように伸びず、ついに、明治27年5月1日に店を閉じ、本郷丸山福山町四番地へ転居します。

 

この後、明治27年12月に「大つごもり」を『文學界』に発表してから、連載されていた「たけくらべ」が完結する明治29年1月までの14ヶ月間という短い期間に、一葉の最高傑作といわれる代表作が執筆されています。

この期間は、後の研究者によって「奇跡の14ヶ月」と呼ばれるようになります。

 

一葉文学にとって半井桃水との出会いが第一の転機とすれば、この頃の実体験で得た題材が第二の転機として「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっているような気がします。

 

 


9.吉原神社

 

明治5年に、玄徳(よしとく)稲荷社、明石稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられた。

 

しかし、関東大震災にて焼失、震災後は水道尻付近の仮社殿にて祀りしていたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、その際、吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。


その後、昭和20年の東京大空襲で焼失したが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。

 

「逢初桜(あいぞめ)」

恋焦がれている人に初めて会うという意味があります。

遊客の出逢いを叶えてくれるとして、江戸時代から新吉原の入口にあった玄徳稲荷社脇に植えられていたもの。

 

 


10.吉原弁財天

 

花園池跡。もともと湿地だった場所に吉原が造成されたので、周囲の池を埋め立てたり、水を寄せて、一つの池にしたらしい。

 

池畔に弁天の祠(ほこら)が祀られましたが、遊女の逃亡防止としての機能もあったようです。 

 

この弁財天には関東大震災にまつわる悲しい歴史があります。

発生した火災から逃がれようとした遊女は廊の中では逃げ場がなく、このため池に飛び込まざるを得ず、490人が溺死したという悲劇が起こりました。

 

その後、池自体はNTT吉原ビル建設時に埋め立てられましたが、弁財天を祀る小社は残され吉原神社の奥宮として、祀られています。

また大震災の慰霊のため、大正15(1926)年に建立された震災殉難慰霊の観音像なども祀られています。

 

こちらにはその当時の新聞記事など、かなりディープなものもあります。

 


えびしんじょう(えびがぷりぷり)
えびしんじょう(えびがぷりぷり)
茶碗蒸し
茶碗蒸し
煮物盛合せ(一部食べちゃったもの)
煮物盛合せ(一部食べちゃったもの)
てんこもりについだ釜めし
てんこもりについだ釜めし

10.ランチ「釜めしむつみ」

 

当日のコースメニュー。

①もずく酢

②煮物盛合せ

③茶碗蒸し

④冷奴

⑤出汁巻き玉子

⑥えびしんじょう

⑦五目釜めし、味噌汁、香の物

 

下見の時、それぞれの料理は食べていたのですが、改めてコースで出てくると、かなりのボリューム。

特に海老のプリプリ感が最高!との声が多かったようでした。

 

畳で座るのが少しきつかった方もいらっしゃったようですが、ご容赦くださいませ。

たまにはこのような下町風情たっぷりのお店で、釜めし、いいんじゃないでしょうか(笑)

 

いつもの街歩きクイズの結果ですが、何と今回はBチームが全問正解。

Bチームキャプテンをされていた方は、前回のぶらっと酒蔵「澤乃井」にも参加いただいており、その時は全問不正解だったとのこと。

まさにリベンジ成功でした、おめでとうございます!

 

賞品は①小桜「かりんとう」、②丸仁「あさりの佃煮」、③黒嶽荘「食べる柚子胡椒」でした。

これらの商品はすべて浅草で購入したものです。

 

実は吉原散歩を開催したのは過去2回あり、今回が3回目でした。

1回目は2人のお客様、2回目は歴史の会40名を連れて案内しました。

今回のお客様は9名と、ちょうどよい人数でした。

私のツアーはやはり、これくらいの人数が適正な感じです。

 

昭和33年までの吉原とは異なり、現在の吉原(現千束)は普通の街になっており、小学生がランドセルを背負って歩いているようなところです。

江戸時代と令和、そのギャップがまた、とても面白い街です。

これも新たな街発見・・

 

吉原周辺が初めてというお客様が多かったので、興味深い散歩になったのではないでしょうか。