【第25回】ぶらっと千住宿「北千住」を実施しました!

千住宿復元模型(マルイ10階)
千住宿復元模型(マルイ10階)

1.9月22日(日)、ぶらっと千住宿「北千住」を実施しました!

 

天気予報は午後から雨でしたが、全く雨に降られることなく無事実施することができました。

このような予報外れは大歓迎です。

街歩きは良い天気の中で行うと、楽しさも倍増ですね。

 

さて、今回の街歩きは「千住宿」。

江戸時代初め、日本橋から日光道中を北に二里八丁、そこに千住宿がありました。

当初、幕府は千住一から五丁目まで宿場町として整備し、後に、掃部宿(現在の千住仲町)から南千住までを加えました。

人口1万人を抱える江戸近郊随一の宿場町で、幕府から遊女を置く旅籠(飯盛旅籠)も認められ、歓楽街としても栄えました。

 

(宿場の役割)

宿場には幕府から三つの役割が課せられていました。

①人馬の継立(伝馬制)

公用通行の人や荷物を運搬するため、千住宿の場合、元禄8(1695)年以前は人足65人、馬65疋、それ以降は人足50人、馬50疋を常に置いていた。

②宿泊施設の提供

日光社参や大名の参勤交代等に使われていた本陣(千住3丁目)、脇本陣と一般の旅籠があった。

③書状の伝達(継飛脚)

 

これら三つの機能は現代で言えば①輸送、②宿泊、③通信のようなもの。

これらの費用は宿場自身の負担だったので、これらの機能を維持させるため、幕府は宿場に飯盛旅籠を許可したと言えるかもしれない。

 

もう一つ、忘れてはならないのは、「商業の街」でもあったこと。

青物問屋、米穀問屋などの商店が立ち並び、農家が米や野菜を「やっちゃば」に運んできて、問屋で農作物を売りさばき、そのお金で衣類や生活用品を買って帰りました。

 

このように経済がうまく回転することで、活気ある街が形成され、さらに千住は町奉行の支配地外だったので、その自由な雰囲気から幕府に批判的な漢学者、御用絵師になれない絵師、詩人、思想家などが集まり、後世に多くの文化作品を残しました。

 


2.橋戸神社「伊豆の長八 鏝絵」

 

延長4(926)年創建。

初めは千住の渡し場の近くに小さな社が造られ、土地の開拓民や、荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めました。

本殿は延徳2(1490)年、拝殿は文久2(1862)年に建立されました。

現在の本殿は、土蔵造りで扉を開くと、左右に伊豆長八作の雌雄2匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られます。

狐の優しい表情がとても印象的です。(上記写真はレプリカ)

 

(伊豆の長八) 

天保年間から明治初期にかけて、こて絵の名人であった左官の長八(伊豆松崎の生まれだったので、伊豆の長八と呼ばれた)は、19歳の時江戸へ出て左官棟梁源太郎の弟子となり、後に狩野派の画法を学び、江戸市中や伊豆地方に多くの名作を残しています。

 


3.千住大橋

 

千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3(1594)年11月のことで、隅田川最初の橋でした。

架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。

橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現(現 南千住6丁目)に祈願してようやく完成しました。

 

初めの橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇の材木を寄進したそうです。

その後,この高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認され、その遺構を確認することができます。

(水面に浮かべられたブイがその場所を示しています)

 

その後、何度も改架、改修が行われ、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置になったと伝わります。

最初の架橋から明治18(1885)年の台風による洪水まで、流出が一度も無く、江戸時代を生き抜いた名橋と言われています。

 

明治19(1886)年に二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2(1927)年に現在の鉄橋が完成しました。

昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋されました。

 

この橋は歴史の舞台にもたびたび登場します。

1689年、松尾芭蕉がここから奥の細道の旅に出発。

1800年、伊能忠敬が第一次蝦夷地測量に出発。

1868年、最後の将軍慶喜は薩長の新政府に恭順の姿勢を示して、江戸を明け渡し、この橋を渡って水戸へ移りました。

 


4.千葉佐那「灸治院跡」

 

天保9(1838)年、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。

北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。

また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたそうです。

 

その美貌については、宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録をまとめた『稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)』に、安政3(1856)年に19歳だった佐那が、伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されています。

「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っています。

殿様も佐那の「熱烈なファン」だったようですね(笑)。 

 

江戸に剣術修業で来ていた坂本龍馬と知り合い、安政5(1858)年頃に婚約したという。

龍馬は姉・乙女宛ての手紙で 佐那のことを「今年26歳、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい」と伝えています。

 

定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てましたが、龍馬が暗殺されたことを知らされると、佐那はこの片袖を形見としました。

維新後は学習院女子部の舎監として働いた後、千住で家伝の灸を生業として過ごし、明治29(1896)年に59歳でこの地で死去しました。

 

龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられていましたが、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7(1874)年に結婚したとする明治時代の新聞記事が2010年に発見されました。

記事では、山口菊次郎とは数年で離縁、その後は独身で過ごしたとされています。

 

明治になった頃でも女性が一人で生きていくことは大変だったのでしょうね。

一時、結婚したといっても、やはり佐那の心には龍馬が消えることはなく、それを感じ取った亭主ともうまくいくことはなかったのでしょう。 

 

さなは亡くなった時、東京谷中で土葬されましたが、身寄りがなく無縁仏になるところ、交友のあった小田切謙明の妻・豊次が哀れみ、小田切家の墓地がある山梨県甲府市の日蓮宗妙清山清運寺に墓碑を建立しました。

墓石には「坂本龍馬室」とあります。  

 

戦後、東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)の無縁塚へ合葬されていましたが、2016年8月、没後120年を機に、さなの妹 はまの子孫が改葬を行い、千葉家縁の練馬区にある仁寿院にて命日の10月15日に法要を営むことが報じられました。

 

佐那も妹のそばに行くことができて喜んでいると思いますが、本当は龍馬のお墓のそばに眠りたいのではないでしょうか・・・ 

 

5.千住掃部宿憩いのプチテラス

 

旧日光街道にはかつて掃部宿があり、後に千住宿に加えられました。

この地域を切り開いて掃部堤を築造した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけ よしたね)に因んで、掃部宿と名づけられ、当時は有力商人が集まって繁栄した町だったそうです。 

 

6.問屋場・貫目改所跡

 

(問屋場)

人足や馬、本陣など宿泊の手配、幕府の書状の伝達など宿場の事務一切を取り仕切っていた場所。

 

(貫目改所)

公用の荷物の重量を図り、運賃を決める役所のこと。

公用通行のうち、将軍の朱印状、老中・道中奉行などが発行した証文があった場合、人馬を無償で使用できました。

 

馬に積める荷物の重量には制限があり、これを守らせるため、初宿である千住宿に貫目改所が置かれましたが、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう賄賂が飛び交ったという噂もあります。

 


7.勝専寺(赤門寺)

 

浄土宗に属し、創建は鎌倉時代文応元(1260)年、千住の地名の由来の一つとされる「千手観音立像」が祀られています。(非公開)

 

また、こちらは徳川将軍家ゆかりの寺。

地元では「赤門寺」と呼ばれているが、朱塗り門は幕府の許しがあったところしか設置できなかった。

 

将軍秀忠が鷹狩をした際、休憩所となり、3歳家光の時代、境内に御茶屋が造営され立ち寄っています。

慶安2(1649)年4代家綱が日光に社参した際、仮御殿が造られ、3日間逗留しました。

勝專寺は千住宿本陣の代わりを務めることがありました。

 

写真の閻魔王座像は「おえんま様」の愛称で親しまれており、小さな窓から見ることが出来ます。

 


8.金蔵寺 

 

真言宗豊山派に属し、南北朝時代建武2(1335)年の創建。 

ご本尊は閻魔大王、彩色された坐像で、本堂正面に安置されているが、非公開なので残念ながら見ることは出来ません。

勝専寺と共に「千住のえんま様」として藪入りには賑わったそうです。

 

こちらの閻魔大王は千住七不思議の一つ「金蔵寺のそばえんま」と呼ばれています。

その昔、閻魔様は、出汁の効いたそばつゆの香りに魅かれ、夜な夜な、娘に姿を変えて蕎麦屋に通った。

あまりに美しい娘だったので、評判になり、そっと店の店主が後をつけると金蔵寺で消えた。

さては閻魔様であったかと蕎麦屋はそばを供えた。

それ以降、金蔵寺の閻魔様はそばが大好物ということになり、ご利益を頂いた人はそばを供えるようになった。

ちなみにその蕎麦屋は千住二丁目の柏屋だとか。

なかなか愛嬌のある閻魔様ですね(笑)

 

門を入ってすぐ左に、飯盛旅籠で働いていた遊女の供養塔と天保8(1837)年の大飢餓で亡くなった人の供養塔が並んで立っています。

 


9.千住本陣跡とその周辺

 

(本陣)

大名や公家が宿泊した場所。

勅使、院使、宮、門跡、公家、大名、旗本などに限られ、日光社参や大名の参勤交代など公用通行に使用された。

 

(明治天皇行在所)

明治天皇が東北巡幸の際、御休息された中田屋別邸の跡(現 浅川医院)。

明治9(1876)年、明治天皇が東北巡幸ご出立当日、午前9時30分に赤坂仮皇居を御出門、正午頃、中田屋にご到着。

お見送りの皇后さま、三条実美、木戸孝允、当時宮内省勤めだった山岡鉄舟ら重臣たちも同道し、休息。

昼食は千住宿内の魚徳が奉り、給仕は男女20名が梅花模様の浴衣を着て奉仕したという。

午後2時過ぎに出発された。

 

中田屋は江戸時代、千住宿随一と言われた飯盛旅館で、士分以上でないと客を取らなかったと言われた。

千住節に「一に中田屋、二に竹のあずま(竹東)、三に相模でとどめさす」と唄われたほどの大店で1000坪ほどあり、その別邸は数寄屋造りの立派な構えで、天皇の休息所として格式を備えていた。

元々、中田屋の建物は旧佐賀藩主鍋島家の別邸だったが、旧佐賀藩士の中田氏が拝領した。

 

明治天皇東北巡幸当時は、貸座敷経営者 横尾龍助氏の所有だった。

その後、行在所跡は建物と共に浅川家が所有し、大正14(1925)年から浅川医院の一部として保存されてきたが、老朽化により昭和30年代に取り壊された。 

 

そのような立派な建物が、令和の時代まで残っていれば、どんなに素晴らしかったことだろう。。。

 

(見番)

置屋の組合事務所、芸者と客の間を取り持つ役割だった。

 

江戸時代、このあたりには多くの飯盛旅籠が立ち並んでいたが、明治5(1872)年娼妓解放令が施行され、表立って商売はできなくなる。

しかし、その後も飯盛旅籠は、宿から独立した女性たちに営業用の座敷を貸す「貸座敷」として継続されていた。

 

その後、大正8(1919)年、柳町遊郭が造られ、貸座敷と娼妓は千住宿場町から柳町遊郭街に移った。

その結果、千住宿場町には置屋と芸者が残り、置屋が一番盛えたのは大正末期から昭和初期で、芸者が20~30人いたと伝わります。

 

そして、1945年2月26日、見番横丁に爆弾がおちて、12~13人が亡くなり、戦後、復活することはありませんでした。

 


10.千住宿復元模型

 

足立区立郷土博物館千住町並調査団(団長 波多野純氏)が、昭和61(1986)年作成。現在はマルイ10階に展示されています。

家は間口が1~2間から5~6間と狭く、奥行は40間(72m)と細長い敷地で、京都の町屋の「鰻の寝床」のような感じです。

 

日光道中に面して店を構え、その奥に裏長屋・隠居屋(離れ)などの住居、蔵があり、その後ろに野菜畑・空き地が続き、裏木戸で外へ通じていました。

 

このビルの屋上に行くと北千住の全景を眺めることが出きるのですが、当日は残念ながら台風の影響で、中止。

天気は全く問題なかったのに・・・とても残念でした。。。

 


11.ランチ懇親会「明日香本店」

 

こちらは地元の方に紹介頂いたお店。 

一つ一つの素材が丁寧に調理されたお弁当+魚の焼きもの+豆ごはんを予約、なかなか普通では食べられないランチです。

煮物中心の和食には日本酒ですね、宮城の超辛口純米酒「日高見」と福島の無濾過生原酒「千駒」をチョイス。

落ち着いた雰囲気の中で、日本酒と和の逸品を楽しみました。

 

今回はクイズの賞品に、佃煮、和菓子、千寿葱をお出ししましたが、「千寿葱」の人気が高かったようです。

お家に帰ってからも、今日の街歩きを思い出しながら食べていただけると幸いです。。(笑)

 

こちらのお店の1階はカウンター席になっていて、目の前で板前さんがきびきびと料理を作る光景が見られます。

ライブ感満載で料理を味わえるのもいいですよ。

 

さすが、地元の方推奨のお店でした。

 


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コメント: 6
  • #1

    まわたりみき (水曜日, 25 9月 2019 09:10)

    藤井さん、参加者の皆さん、お世話になりました。
    街歩きと会食を通して交流させていただき大変楽しい時間でした。
    藤井さんの心のこもった丁寧なご案内で
    いつも通る道や場所が、特別なものになりました。
    自分が住む街の発見ができて、本当によかったです。ありがとうございました。
    また、機会を見つけて参加したいと思います。今後とも宜しくお願い致します。

  • #2

    街発見くらぶ 藤井 (水曜日, 25 9月 2019 10:07)

    先日はぶらっと千住宿「北千住」にご参加頂きありがとうございました。お一人で初参加だったので、少し心配しましたが、楽しそうに他の参加者の方とお話しされている様子を見て安心いたしました。ぶらっと散歩は今回が25回目でしたが、毎回、私が考えたクイズとちょっとした地元の名産品を賞品としてお渡しして、楽しんでいただいています。これからも新たな「東京の街発見」を目指して探索を続けますのでよろしくお願いします。

  • #3

    佐々木雅一 (木曜日, 26 9月 2019 13:16)

    今回も楽しい時間を過ごさせて戴き有難う御座いました。
    雨男の僕が参加した事で大変心配だったのですが、
    良い意味で天気予報が外れて心掛けの良い皆様の恩恵で
    助かりました。
    皆様に御礼申し上げます。
    恒例の歴史クイズは生半可の知識では解けない問題で
    毎回悩まされますが、リーズナブルなお料理も
    毎回楽しみです。
    また、是非参加させて戴きたいと思います。
    先ずはお礼まで  佐々木

  • #4

    街発見くらぶ 藤井 (木曜日, 26 9月 2019 23:48)

    佐々木さん、ぶらっと散歩にご参加いただき、ありがとうございました。
    クイズは歴史に詳しい方でも、なかなか分からないような質問を作っていますので、外れてもお気になさらないでくださいね。
    参加者同士が、クイズを通じて話すきっかけになればと思い、無い頭で一生懸命考えてます(笑)。

    美味しいお店の情報は、歩いたときに地元の方に訊くようにしています。
    佐々木さんのご存知のお店でよいところがありましたら、教えて頂けると助かりますのでよろしくお願いします。

    また、ご都合の良い時にご参加をお待ちしています。


  • #5

    佐々木雅一 (金曜日, 27 9月 2019 14:25)

    代官山にあるフレンチですが、

    此処は美味しかったです。

    店員さんも感じが良くて良くリピートしてます。

    https://www.favori-city.jp/

  • #6

    街発見くらぶ 藤井 (金曜日, 27 9月 2019 14:50)

    貴重な情報提供ありがとうございます。
    今度、代官山方面を探索する際に寄ってみます。