· 

ぶらっとディープ散歩「新宿二丁目」

《夜はディープな街「新宿二丁目」を歩きました!

1.太宗寺

 

太宗寺はこのあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元(1596)年頃にさかのぼると伝わります。

 

太宗は次第に住民の信仰を集め、さらに現在の新宿御苑一帯を拝領していた内藤家の信望も得て、寛永6(1629)年の五代正勝の葬儀ではその一切を取り仕切り、墓所もここに置くことになりました。

 

こうして六代重頼から寺領の寄進を受けてできたのが、現在の太宗寺の由来です。

 

「閻魔像」

木造で文化11(1814)年に安置されたもの。(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直された)

 

弘化4(1847)年には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になったそうです。

 

 


2.太宗寺「奪衣婆(だつえば)像」

 

木造で総高は240cm、明治3(1870)年の製作と伝わります。

 

奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされます。

また、衣服をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ、信仰されていました。

 

しかし、この顔、インパクトありますねぇ。

暗い夜道で出会ったら思わず、引き返しちゃいそうです(^ω^)・・・ 

 

 


3.太宗寺「銅造地蔵菩薩坐像」

 

深川の地蔵坊正元が発願し、「江戸六地蔵」の3番目として、江戸市中から多くの寄進者を得て、正徳2(1712)年に造立されました。

 

その他の「江戸六地蔵」

品川寺(品川区)、東禅寺(台東区)、真性寺(豊島区)、霊巌寺(江東区)、永代寺(江東区、現存しない)

 

私は、これで現存する5つの銅造地蔵菩薩坐像全てに行きました。

何やら御利益がありそうな気がしてきました(笑) 

 

 


4.太宗寺「塩かけ地蔵」

 

願かけの返礼として「塩」をかける珍しい風習のある地蔵尊です。

 

造立年代やその由来ははっきりしていません。

 


5.成覚寺

 

文禄3(1594)年の創建と伝わりますが、江戸時代、岡場所としても繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投込み寺でした。

 

奉公途中で亡くなった飯盛女は身に着けていたものをはぎ取られて、俵に詰められ、投込むようにこの地に葬られたそうです。

 

成覚寺に葬られた人数は2200とも3000あまりともいわれています。

 

南千住でも投込み寺と呼ばれていた浄閑寺に行きましたが、やはり独特のディープな雰囲気があります。

 

 


6.成覚寺「子供合理碑(こどもごうまいひ)

 

万延元(1860)年に内藤新宿の旅籠屋によって造立された、共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑。

 

「子供」という名称なのは旅籠の主が飯盛女たちを「子供」と呼んだからだそうです。

 

 


7.成覚寺「旭地蔵」

 

玉川上水で心中した男女を供養するため寛政12(1800)年に造立された地蔵菩薩像。

旭地蔵の名は明治12(1879)年まで玉川上水北岸の旭町(現新宿四丁目)に安置されていたことに由来します。

 

台座には18名分の戒名が刻まれており、その内、男女で対になったものが7組あります。

 

また、この地蔵にお参りすると子供の夜泣きが治まると言われており、「夜泣地蔵」とも呼ばれていたそうです。

 

 


8.正受院

 

文禄3(1594)年、正受乘蓮和尚を開山として創建。

 

幕末の会津藩主 松平容保が葬られた寺院でもあるが、のちに会津の松平家院内御廟へ改葬されました。

 

 

「奪衣婆像」

 

太宗寺にも奪衣婆像はありましたが、こちらの奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、咳止めや子供の虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣がありました。

 

幕末には奪衣婆像に関して、「正受院に入った泥棒を霊力で捕らえた」とか「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」などの噂が広まり、参拝客が押し寄せる騒ぎとなり、寺社奉行による制限を受けるほどだったそうです。

 


9.正受院「梵鐘」

 

昭和17(1942)年、戦争による金属供出のため失われたはずだったが、戦後になってアメリカ アイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることがわかり、昭和37(1962)年に正受院に返還されました。

このため、この梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせています。

  

 



10.江戸名所図会「四谷内藤新宿」

 

元々、甲州道の最初の宿場は高井戸で、日本橋から四里八丁(16.6km)も離れていたので人馬ともに不便でした。

 

そこで、浅草の名主喜兵衛が元禄10(1697)年に同志4名と共に太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いを出し、翌年に許可となりました。

(なぜ、喜兵衛が宿場開設を願い出たのかよくわかっていませんが、運上金5600両を納めることをその時申し出たそうです)

 

幕府はその用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑近辺)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地を返上させました。

こうして「内藤新宿」は元禄12(1699)年に開設されました。

 

宿場は大きく3つに分かれ、四谷大木戸側から下町、仲町、上町と呼ばれ、太宗寺の門前は仲町にありました。

 

内藤新宿は江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)の一つで、木賃宿や旅籠が立ち並び、飯盛旅籠(飯盛女と呼ばれる遊女を置く旅籠)も多く、その賑わいは元禄15(1702)年、当時幕府公認の吉原から訴訟が出されるほどでした。

明和9年の記録では、幕府は内藤新宿に150人の飯盛女と旅籠屋52軒の営業を許可している。

 

大変な賑わいだった内藤新宿ですが、享保3(1718)年に宿場は廃止となります。

(旅籠屋の飯盛女が相当派手に客を引き入れたせいでしょうか・・?)

 

しかし、その後、再興の願いが出たこともあり、明和9(1772)年には宿場は再興され長く繁栄します。 

 

あの夏目漱石は幼少時、内藤新宿の門前名主塩原昌之助の養子となって、内藤新宿北町裏に住み、その後、太宗寺南側にあった妓楼「伊豆橋」で生活していたらしい。

 

またこのあたりは芥川龍之介の実父新原敏三が明治21(1888)年から大正2(1913)年まで経営していた牧場があり、「牛屋ヶ原」と呼ばれていました。

新宿2丁目に牧場・・・今じゃ全く考えられないですね(笑) 

 

大正12(1923)年の関東大震災で吉原や洲崎の遊郭は大打撃を被ったので、比較的被害の小さかった新宿遊郭はさらに繁栄することになります。

 

しかし、昭和33(1958)年の売春防止法の施行により、「赤線の街」としての新宿二丁目は閉じることになりますが、当時、家賃が安かったせいでしょうか、その後、ゲイタウンへと発展します。

 

この街は今でも夜は、かなりディープですが、江戸、明治、大正、昭和、平成と続いてきたその世界は想像もつかないような歴史の繰り返しでした。

次の時代「令和」にはどんな街に変わっていくのでしょうか?