【第20回】ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」を実施しました!

徳川綱吉霊廟勅額門
徳川綱吉霊廟勅額門

2月11日(日)ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」を実施しました!

 

本日のメインイベントは寛永寺にある歴代将軍 御霊廟の特別参拝です。

2ケ月前に抽選に申し込み、運よく当たりました!

 

今回の「ぶらっと散歩」はちょうど20回目。

たまにはこのような珍しい見学もいいかなと思い、企画しました。

実は私自身も初めての参拝で興味深々でした。

 

ではまず、上野公園からスタート。 

 

 


東京都荒川区「円通寺」に移築された黒門
東京都荒川区「円通寺」に移築された黒門

1.上野公園 壁泉(黒門)

 

この壁泉はかつてこの地にあった寛永寺の黒門をイメージしています。

 

幕末の上野戦争では最も激しい戦闘が行われたのが、この黒門付近でした。

戦いは銃撃戦だったので、黒門にも多くの銃弾の痕が残りました。

 

焼け残った黒門は、現在、東京都荒川区の円通寺に移築されています。

円通寺には彰義隊の墓所もあり、黒門と共に幕末の壮絶な歴史を今に残しています。

 (ぶらっと散歩では2018年7月に訪れています)

 

 


2.西郷隆盛像

 

西郷が亡くなって21年後の明治31年12月18日、除幕式が行われました。

参列した糸子夫人はこの像を見て「あらよう!宿ンしはこげなお人じゃなかったこてぇー」と声を上げたそうです。

 

その意味は?

人前でこんな恰好をする人ではない?  

顔が違う?

 

当初は軍服で騎馬姿が予定されていましたが、一部の反対で、今の犬を連れてウサギ狩りに行く姿に変更されたようです。

この銅像はおそらく日本一有名な銅像だと思いますが、この姿が後に西郷さんの親しみやすいイメージを作ったのかもしれません。

 

 


3.彰義隊墓

 

ここは三河屋幸三郎らが隊士の遺骸を荼毘にふした場所。

元彰義隊士の小川興郷らの尽力で墓碑が建立されましたが、これは建立費用の借金のかわりに持ち去られました。

 

現在の「戦死之墓(山岡鉄舟筆)」の碑は明治14年の再建です。

その墓前にある「彰義隊戦死之墓」は寛永寺子院の住職たちが明治2年に新政府の目を憚って建てた初代の墓碑です。

「戦死之墓」を建立する際、発掘されたと伝わります。

 

敗者の彰義隊の墓と勝者である西郷さんの銅像がこんなに近くにあるのは、これも因縁でしょうか・・・

 

    


4.清水観音堂

 

清水観音堂は上野戦争で燃えずに残った一つで、本尊は平盛久念持仏と伝えられる千手観音菩薩坐像。

 

上野戦争における黒門での激しい戦いの様子が描かれた大きな絵馬がかかっています。

その絵の端には戦争で使われたアームストロング砲の砲弾が飾られています。

砲弾 右:四斤山砲(よんきんさんぽう)、左:アームストロング砲。

 

月の松

明治初期の台風による被害で、失われていましたが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)12月に復元されました。

月の松の先には近江の竹生島の宝厳寺に見立てて建立された不忍池辯天堂を見ることができます。

 

 


6.上野大仏

 

寛永8(1631)年、 越後村上藩主、堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立。

像高約6メートルの釈迦如来坐像でした。

その後、青銅製の釈迦如来坐になり、大仏殿も建造されました。

 

そして火災や地震に遭い、その度に修復されてきましたが、1923年の関東大震災で頭部が取れてしまい、さらに第二次世界大戦のとき、金属供出令により胴体と顔面以外の頭部が日本軍に供出されてしまいます。

 

現在では顔面部のみがレリーフとして保存されています。

 

それで「これ以上落ちない!」というわけで、合格祈願に訪れる人が後を絶ちません。 

  

 


7.上野東照宮 五重塔

 

寛永8(1631)年、寛永寺創建の総奉行を務めた土井利勝が寄進しましたが、焼失し、寛永16年、改めて造らせたもの。

手がけたのは日光東照宮を建立した幕府の作事方大棟梁の甲良(こうら)宗広と宗久。

 

ちなみに都内に残る江戸時代の五重塔は、ここと池上本門寺の二つのみだそうです。 

 

 


8.東照宮唐門

 

寛永19(1642)年、家光の建立した浅草東照宮の消失後、藤堂高虎が下屋敷内に建てていたものを代わりとしました。

 

正保3(1646)年に後光明天皇から正式に東照宮の院号も授けられましたが、家光は気に入らず、全面建て直しを命じ、慶安4(1651)年に完成したのが、現在の東照宮。

 

家康を主神とし、吉宗と慶喜を合祀しています。

慶喜の霊は昭和42年1月に合祀されました。

 

唐門は慶安4(1651)年造営。国指定重要文化財、正式名称は唐破風造り四脚門。

 

柱内外の四額面には左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜、不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。

偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。

 

 


9.池田屋敷表門(黒門)

 

元々現丸の内にあった旧大名小路の鳥取藩32万石池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。

唐破風造の出番所を左右に備えているのは10万石以上の格式で、潜り戸を備えた豪壮な構えです。

 

明治時代、東宮御所正門、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29(1954)年、東京国立博物館の敷地内に移築されました。

 

創建の時期は明らかでありませんが、形式・手法から見て江戸末期と考えられます。

大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるものです。

 

 


10.黒田記念館

 

今日はここで黒田清輝の絵画を見ながら、トイレ休憩。

 

なんとここは無料なのです。 

 


11.寛永寺

 

京の比叡山にならって、東叡山と呼ばれ、江戸城の鬼門にあたる上野忍ケ岡(現上野公園)に徳川幕府の安泰と江戸城鎮護のために、寛永2(1625)年、家康の帰依があつかった天海僧正によって創建されました。

 

芝増上寺とともに江戸の両山といわれた徳川家の菩提寺です。

4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、12代家定の6人の将軍が葬られています。

 

将軍家の御霊廟は4代家綱、10代家治、11代家斉を祀る厳有院霊廟と5代綱吉、8代吉宗、13代家定を祀った常憲院霊廟があります。

かつては各霊廟に権現造の霊屋と、その前面に勅額門、拝殿、相の間、回廊、本殿、奥の院がありましたが、戦災にあい、勅額門、唐門、宝塔だけが残っています。

 

葵の間

鳥羽伏見の戦いにおいて、薩長側に錦の御旗が掲げられ、形勢は決定的となり、徳川慶喜は松平容保、松平定敬らを連れて大阪湾の幕府軍艦に乗って、江戸に逃げ帰ってしまいます。

 

その後、江戸城を出た慶喜は寛永寺に輪王寺宮公現法親を訪れ、朝廷に対し、恭順謝罪したいと、とりなしを願いました。

 

それ以来、慶喜は寛永寺に移り、ひたすら謹慎の姿勢をとりました。

(慶喜は江戸を戦火から救おうとしたのか、朝敵になるのを恐れたか・・・)

 

周囲は山岡鉄舟ら70余名と見廻組50名が警護にあたりました。

大慈院は宝永6(1709)年、36番目に完成した子院。

 

慶喜はその心の内を「花もまた哀れとおもへ大方の春を春とも知らぬわが身を」と詠んでいます。

 

 


12.寛永寺特別参拝

 

特別参拝ですが、まずは根本中堂に上がって、ご住職の説明を聞きます。

それから、参加者全員で般若心経を読むのですが、その中で、参加者の名前も読まれ、私たちは「街発見くらぶの皆さん」と読んでいただきました。

 

しかし、畳だったので、皆さん、ちょっときつかったかな。

私も足がしびれました・・・

 

そのあと、慶喜公謹慎の部屋「葵の間」を見学。

 

なぜ、慶喜公が謹慎した場がこの寛永寺だったのか・・・(徳川家菩提寺の増上寺でもよかったのでは?)

これについては、はっきりとした理由はわかりませんが、増上寺は新政府軍が攻めてくる方角だったので危険でした。

これに対し、寛永寺はもしもの場合、江戸を離れて生家である水戸か、徳川ゆかりの日光に行きやすいという地理的条件があったとか。

また大慈院が選ばれたのはこの寺の住職と面識があったこと、そして大慈院が寛永寺山内でもかなり奥まった位置にあり、安全だったことが挙げられます。

 

また、その当時、慶喜公は昼間は雨戸をほんの少しだけ開けて一日中、謹慎しておられたのだとか。

大河ドラマ「西郷どん」では開け放たれた部屋で勝海舟などと話をしておられましたが、あれはフィクションですと・・

 

慶応4(1868)年4月11日、慶喜公はわずかな供を連れて、「葵の間」を出て、水戸に退去します。

 

慶喜公が着用したと伝わる陣羽織なども飾ってありました。

トイレも見学しましたよ、もちろん、水洗ではありませんでした(笑)。

 

それから、外に出て、歴代将軍の御霊廟を見学。

東京の真ん中にいることが信じられないような静寂な雰囲気。空気感が全く違うのです。

増上寺のようにお墓が集められているわけではないので、結構広いです。

 

まずは綱吉公の御霊廟。

かなり立派なもので、さすが将軍という感じです。

 

次に吉宗公です。あれっ、先ほどの綱吉公とは違ってかなり質素なものでした。

吉宗公は、民に質素倹約を強いりましたが、自分の墓もそれを象徴するように質素なものを作らせたのです。

 

それ以降の将軍は吉宗公を見習い、ほとんど同じような御霊廟となったようです。

 

13代家定公の御霊廟も同様でした。

そしてその家定公の隣に、篤姫の墓もありました。

篤姫は明治になってから亡くなったので、将軍の隣に葬られたようです。

(それまでは正室といえども、将軍の墓のとなりにはありませんでした)

 

今回、初めて私も寛永寺の将軍御霊廟を見学しましたが、今まで感じたことのない雰囲気、江戸時代にタイムスリップしたような気分を味わえて本当によかったです。

 

 


13.谷中霊園「徳川慶喜墓」

 

慶喜公は寛永寺で謹慎したあとは水戸に移り、3ヶ月後、さらに静岡に移住します。

明治2年9月に謹慎を解かれ、正二位に復し(21年に従一位)、30年11月に静岡から東京に戻ります。

そして、31年3月2日、初めて参内し、明治天皇・皇后に拝謁します。

 

大正2年11月22日、東京文京区で亡くなります、将軍としては最長寿の77歳でした。

 

葬儀は本人の遺言で神式で行われ、土饅頭の塚が築かれました。

朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を受けたことで、明治天皇に感謝の意を示すため、そのようにしたのではと伝わります。

 

「勝 精の墓」

 

勝精は徳川慶喜の十男として誕生。

 

勝海舟は嫡男(小鹿)が病死したため、主君慶喜公に十男の精を婿養子とさせてほしい旨、願い出て許しを得ます。

そして、小鹿の娘 伊代子と精は結婚します。そのとき、わずか11歳だったそうです。

 

精は写真、ビリヤード、銃猟、など多趣味で華族としてはかなり型破りな生活をしていたようで、妻の伊代子が亡くなると、おおっぴらに遊ぶようになり、最後は妾と薬物による心中をしてしまったようです。

 

妻の伊代子は本人の希望で夫と同じ墓に入りたくないとの遺言を残し、最初は青山の勝家の墓に入りました。

 

勝海舟の妻も同じような遺言を残していました。

母娘で同じ悩み(夫の女癖の悪さ)を抱えていたのですね・・・ 。

 

(ここはあえてコメントは差し控えさせていただきます(笑)・・・)

 

 


13.乃池でちょっと遅めのランチ

 

今回、寛永寺の特別参拝が30分以上時間オーバーしたため、最後の徳川慶喜墓、食事の時間が遅くなってしまいました。

このようなアクシデント対応も「ぶらっと散歩」の今後の課題です(笑)

 

乃池さんの「穴子寿司」、これはもう言葉は必要ないです。

ふわトロの煮穴子を炙って表面の香ばしさを加えたにぎりは最高です!

 

つまみは「たこのふっくら煮、穴子のきも煮」を頼み、熱燗と一緒にいただきました。

 

時間超過で焦ってしまったので、食事風景の写真を撮るのを忘れてしまいました。

 

何人かのお客様は穴子寿司のお土産も買われ、ご家族と一緒に食べられたようです。

 

 

皆様の温かいご支援おかげで「ぶらっと散歩」も第20回を無事終えることができました。

今後とも、さらにパワーアップした『面白くて美味しい企画』を考えていきますので、よろしくお願いします!