《ぶらっと「飯田橋~九段下」あたりを幕末の痕跡を探しながら歩いてみました!》
1.江戸城牛込門跡
牛込見附は上州道に通じる交通の要所であり、神楽坂通りのまわりに多くの旗本家臣などを役職ごとに住まわせた組屋敷から江戸城への登城道でした。
外堀が完成した1636年に阿波徳島藩蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。
これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。
もしも、石垣の上の建物も残っていたら、神楽坂の雰囲気がちょっと変わったものなったかもしれませんね。
2.法政大学内 アーネストサトウ 旧宅跡地
『一外交官の見た明治維新』などの著書で知られ、親日家・日本研究家でもあるサトウは、文久2(1862)年に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として来日し、幕末から明治維新の動乱期にオールコック、パークス両公使を補佐しました。
明治17(1884)年にいったん日本を離れますが、明治28(1895)年に駐日公使として帰任、明治33(1900)年まで滞在しました。
サトウは日本にいる間に武田兼(たけだ・かね)との間に二男一女をもうけます。
正式な結婚ではありませんでしたが、サトウは家族のため、1884年に麹町区富士見町4丁目6番地(当時)の旧旗本屋敷を購入しました。
「サトウ」という姓はスラヴ系の姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の『佐藤』とは関係ありません。
しかし、親日家だったサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗りました。
本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、『日本人との交流に大きなメリットになった』と言っています。
後年、サトウの次男で日本山岳会設立や尾瀬の保護に努めるなど日本を代表する植物学者として優れた業績を残した武田久吉(1883〜1972)がここに住みました。
法政大学がこの武田邸を購入したのは昭和51(1976)年です。
3.白百合学園(広沢真臣邸宅跡)
広沢真臣は萩藩士。安政6(1859)年以降、藩政に参与し、尊王攘夷派として討幕運動を推進。
藩政の中心に位置し、慶応2(1866)年の第2次長州征討時は、藩を代表して幕府側の勝海舟と休戦協定を結びました。
翌慶応3年10月には討幕の密勅を受けて長州藩に持ち帰っています。
また、薩長両藩出兵の盟約を結び、討幕運動に奔走しました。
新政府では徴士、参与、民部大輔、参議などを歴任し、版籍奉還を推進。
広沢は長州藩から参与として送り込まれました第一号でした(木戸孝允より早かった)。
薩摩の西郷や大久保に匹敵する位置にいて、明治2(1869)年7月には参議になっています。
しかし、明治4(1871)年1月9日、麹町冨士見町の屋敷で愛人と一緒のところを襲撃され、暗殺されました。
そのとき、愛人はかすり傷程度でしたが、広沢は咽喉部を3ヶ所、全身を15ヶ所も斬られるという悲惨な状況でした、享年39歳。
この事件には政敵だった木戸孝允が絡んでいるという説、その他にもいろいろは容疑者が検挙されましたが、結局、迷宮入りとなってしまいました。
4.靖国神社内 練兵館跡
斎藤弥九郎によって開かれた、神道無念流の剣術道場。
「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館)、「位の桃井」(鏡新明智流・士学館)と並び、「力の斎藤」と称され、後に幕末江戸三大道場の一つに数えられました。
有名な門下生には、長州藩の桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎などがいます。
明治維新後、東京招魂社(現靖国神社)創建により立ち退かざるを得なくなり、明治4年、牛込見附内に移転しましたが、文明開化の影響で剣術は廃れ、練兵館はさびれてしまいました。
昭和50(1975)年、斎藤弥九郎と縁のある斎藤信太郎によって、栃木県小山市に剣道道場として再興されました。
5.靖国神社 大村益次郎像
長州出身の洋学者で近代的軍制の創設者。
蘭学者 緒方洪庵に師事。
洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれてから、幕府に出仕、蕃書調所、講武所(教授)を経て長州藩に仕えました。
第二次長州戦争に備えて藩の軍制改革に従事、平民軍の編成に貢献。
また、新式銃装備の充実に尽力し、購入のため自ら上海に行きました。
1866年の開戦になると、石州口参謀として優れた戦略を発揮。
王政復古後、明治新政府の軍事指導者となり、戊辰戦争では彰義隊征討に戦功をあげ、明治2(1869)年、兵部大輔となりました。
兵権を天皇に帰属させた全国常備配置の「御親兵」を編成し、ゆくゆくは国民皆兵をもって財政と両立させること、当面はフランス式軍制に拠りつつ、軍政の根拠地を京阪地方に置くことなど、国軍の基礎を建設する構想を実行に移すべく1869年7月視察に西下した。
しかし、その政策は武士層の特権剥奪、洋式模倣の弊害をもたらすとして、攘夷派の敵意を集め、同年9月、同じ長州の不平分子らに京都の旅宿で襲撃され負傷、11月5日敗血症で死去しました、享年46歳。
その遺志は、山県有朋ら長州系軍政家に継承され、やがて徴兵令の制定に発展します。
この銅像は1893年、靖国神社に建立されました。
6.高燈篭(常燈明台)
明治4(1871)年に招魂社(靖国神社)の灯籠として奉納されたもので、東京湾の漁船の目印になったと伝わります。
建設当時の東京の人たちにとって、新しく出来た天皇の政府の力を見せつける、新江戸タワーでした。
高さは16.8m 、上部は洋風、下部は和風の様式。
西洋の文化を取り入れ始めた時代の象徴であり、靖国神社に祭られた霊のために建てられました。
7.九段坂
『 新撰東京名所図会』には「九段阪は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段長屋といひしより此阪をば九段阪といひしなり。
今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ急嶮なりし故に、車馬は通すことなかりし(後略)」と書かれています。
(江戸城吹上庭園の役人の官舎が坂の途中に9棟並んでいたからとも、江戸時代、急坂で九つの石段上の坂であったからもいわれています)
飯田町の坂であるところから、古くは「飯田町坂」、「飯田坂」などとも呼ばれていました。
この坂上からの眺望は素晴らしいもので、江戸湾はもとより、房総の山々も見渡せたといわれています。
8.田安門
創建年代は明らかではないが、高麗門の扉の釣金具に残された刻銘から、寛永13(1636)年に建てられたと考えられています。
古くは田安門の辺りは、「田安口」、「飯田口」と呼ばれ、上州方面へ通じる道があったといわれています。
当時、田安門から南にわたる西側一帯には田安家(田安徳川家)、東側一帯には清水家(清水徳川家)がありました。
江戸城造営後は、「北の丸」と称して、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。
千姫や春日局、徳川家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などがありました。
現在の門内の辺りは、当初、田安台と呼ばれていた百姓用地で、そこに田安大明神(現・築土神社)があったことから名付けられました。
「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されています。
また、江戸城の門には桜田門と清水門があり、重要文化財(建築物)に指定されています。
9.北の丸公園 吉田茂像
学習院を経て明治39(1906)年、東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入ります。
同期に後の首相広田弘毅がいました。
妻は大久保利通の二男で内大臣の牧野伸顕(まきののぶあき)の娘雪子。
中国勤務が長く、特に奉天総領事として日本の権益拡張を図りました。
そして、昭和3(1928)年、田中義一内閣に自薦して外務次官となりますが、翌1929年浜口雄幸内閣のリベラル外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の手で駐伊大使に転出されます。
1936年広田内閣に外相か内閣書記官長として入閣のはずが、「親英米派」を理由に軍部が反対、駐英大使となります。
そんな吉田は、日独防共協定に終始反対したこと、また太平洋戦争末期に近衛文麿元首相らと和平工作を企て陸軍刑務所に収監されたことで、戦後に和平主義者として復活します。
東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任しました。
戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と現総理の安倍晋三の2人のみです。
10.大隈重信邸跡
大隈重信は明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力、また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
明治元(1867)年10月から明治17年3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、明治15(1882)年10月、創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
そうか、早稲田はこの地で生まれたとも言えるのですね。
その後、この地はフランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。
竹橋事件
明治11(1878)年8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件。
動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平でした。
大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企てたと言われていたためです。
11.ランチは神楽坂 和らく
ランチは神楽坂を歩いた先にある「和らく」さんにおじゃまして、「土日祝日限定プレミアム御膳」をセレクト。
「限定」という言葉に弱いので、つい頼んでしまいましたが、和の食材を活かして丁寧に作られていました。
1.高知県産生シラスと若筍春菜木の芽鍋
2.ホタルイカと菜の花酢味噌和え
3.天使の海老と天豆の茶碗蒸し
4.春の産直鮮魚のお造り
5.浅利と生姜ご飯
生シラスは鍋に入れる前にそのまま食べてみましたが、塩味が効いた微妙な食感が絶品。
また、その鍋の出汁が本当に上品な味で、作り手の繊細な心遣いが感じられます。
天使の海老の頭がまるごと揚げてあって、そのままばりばりと食べると、もう口の中は「海老」の香りでいっぱい。
ホタルイカも久しぶりに食べましたが、酢味噌のコクと相まって、これまたいい感じです。
冬の装いに彩られる庭の風景を眺めながら、素晴らしい素材を活かした料理を楽しみました。
こちらの日本家屋は、その昔は料亭だったのかなと思い聞いてみると、ある印刷会社の社長さんのご自宅だったとか。
お隣に座っていた方はご近所の方らしく、よくランチに来られるとのことでした。
趣のある日本家屋で、地元に根付いた和食。
「一人でゆったりランチ」、たまにはいいもんです・・・
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