2019年のブログ


ぶらっと下町人情散歩「レトロな街 根岸」

旧陸奥宗光邸
旧陸奥宗光邸

新型コロナウィルスの影響で、3ヶ月ほど休止していたぶらっと散歩を再開することにしました。

今回は上野から日比谷線で一駅の入谷駅からスタートし、山手線で乗降客が一番少ない鶯谷まで歩きました。

 

 1.旧陸奥宗光邸

 

陸奥宗光邸と言えば、その一つが私の大好きな清澄庭園近くの隅田川沿いにもあって、そこには明治5(1872)年から同10(1877)年まで住んでいました。(現在、ここは看板が立っているだけ)

そして、陸奥は明治5年、新橋で芸者をやっていて、その美貌が有名だった亮子と結婚しました。

 

その後、陸奥は、明治11(1878)年に西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁固5年の刑を受け投獄されます。

明治16(1883)年1月に出獄したあと、同年9月に取得したのがこの邸宅です。

まだ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。

 

明治17(1884)年4月から明治19(1886)年2月まで、陸奥はロンドンに留学します。

その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称された亮子と子供たちがこの家で暮しました。

 

そして陸奥は留学から帰国して、明治20(1887)年4月に六本木に転居するまでここで過ごしました。 

 

この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては、都内で最も古いものの一つです。

 

陸奥家との関りを示すものとして、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。

 

明治40(1907)年頃、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)としてここを買い取ります。

現在も、この家にはご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。

 

というわけで、この邸宅の中を見ることは残念ながら出来ません。。

 


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ぶらっと本郷「江戸の大名屋敷から明治の文豪旧居跡を巡る」!

東大赤門
東大赤門
東大正門
東大正門

新型コロナウィルスの影響で、現在、ぶらっと散歩は休止中ですが、過去に歩いた場所をまとめてみることにしました。

 

まずは、「本郷」。

ちょっと前までは、東京大学の学生たちが住んでいた下宿屋が数多くあり、東京のど真ん中ですが、何となくゆったり時間が流れているように感じる街です。

 

東大周辺に残る江戸時代の大名屋敷跡や明治の文豪たちが住んだ街の痕跡を巡りました。

 

1.東京大学赤門「加賀藩前田家 御守殿門」

 

加賀藩上屋敷は慶長10(1605)年に和田倉門外の辰之口に与えられていましたが、大坂の陣後、元和2(1616)年頃、本郷に屋敷地を拝領、これを下屋敷とし、辰口は上屋敷としました。

 

その後、明暦の大火で辰口邸が焼失、代わりに筋違御門外(現秋葉原付近)に上屋敷を、駒込にも屋敷地を拝領しました。

しかし、筋違邸も天和2(1682)年の大火で焼失、翌年、本郷の屋敷を上屋敷、駒込を中屋敷、延宝7(1679)年に拝領していた平尾(板橋宿隣接)の屋敷を下屋敷としました。

 

本郷屋敷の赤門はもともと15mほど奥の位置にありましたが、大学構内整備のため、明治36(1903)年に現在地に移設されました。

 

この赤門が東大の正門かと思いきや、正門は別にあります。

赤門のように江戸時代の面影を持ったものではありませんが、立派な作りです。

赤門前で写真を撮る方は多いですが、こちらは少ないようです(笑)。 

 


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ぶらっと幕末歴史散歩「九段~神楽坂(2/23日曜)」は中止(延期)します!!

今週末に迫っていた題記のイベントはコロナウィルス拡大に伴い、中止(延期)としました。

  

昨夜のニュースを見ても、その拡大ペースが、止まりそうになく、数々のイベントが中止に追い込まれています。

現状、その治療法が確立されていない状況では、感染を少しでも防ぐためにはやむを得ないかと思います。

 

実は昨日の朝までは実施する方向で調整しており、当日、配布するマスクを購入しようと10軒以上まわりましたが、全く入手できませんでした。

まるで、昭和のオイルショック時、トイレットペーパーが世の中から消えたときのようで、肌身でその異常を感じました。

 

そこで、刻々と変わる情報を耳にしながら、冷静に、どうすべきか考えました。

 

ぶらっと散歩を考えた時のコンセプトは下記3つの「わ」でした。

①「話」散策しながら新しい街を発見、思わず会話もはずむ
②「和」人に教えたくなるような食べ歩きやお店の食事で、和んでくる雰囲気
③「輪」そして新たな仲間の輪が拡がる

 

参加者の皆さんが大きな口を開けて笑いながら、街歩きや食べ歩きを楽しみ、ランチ懇親会では、お酒を飲みながら仲間作りをする。
そんな会を目指してきました。

 

しかし、当日、マスクをしながらの街歩きでは、上記の「わ」を楽しむことができないと判断し、苦渋の決断となりました。

 

今回は、リリース早々に定員一杯になるほど参加希望をいただき、本当にありがとうございました。

にもかかわらず、直前になって中止とし、参加を予定下さった方には大変なご迷惑をおかけすることになってしまい、誠に申し訳ありませんでした。

 

次回は3月20日の実施を目標に、企画(江戸城跡)をまとめていましたが、現状ではまだ難しい状況です。

 

いずれまた世の中が落ち着いたころ、改めて今回のイベントも実施するつもりなのでよろしくお願いします。

 

 


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ぶらっと昭和レトロ散歩「代々木公園~渋谷」!

1.代々木公園「東京五輪選手村記念碑」

 

代々木公園は戸時代、加藤清正の子孫の屋敷地を、当時の彦根城主井伊直孝が拝領しましたが、明治の終わり頃には陸軍の練兵場となりました。

 

そして第二次世界大戦後は連合国に接収され、アメリカ軍将校家族宿舎「ワシントンハイツ」が建設されていましたが、その後、日本に返還され、その跡地に第18回オリンピック大会(昭和39)の選手村が設けられました。

敷地面積は約66万平方メートル、5,900人を収容できる施設で、 当時、ここ以外では八王子、相模湖、大磯、軽井沢などの分村が作られ、競技によってはそちらの選手村が利用されたそうです。

 

オリンピック終了後、造成工事に着手し、昭和46年、代々木公園としてオープンしました。

 

武家屋敷から練兵場、そしてアメリカ軍家族宿舎、オリンピック選手村、そして現在の代々木公園に至る江戸時代から昭和の変化は、まさに激動の連続でした。

 


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ぶらっと途中下車「彦根城」!

彦根城博物館「井伊の赤備え」
彦根城博物館「井伊の赤備え」

娘と一緒に帰京の途中、彦根でぶらっと途中下車。

 

彦根城は娘も私も初めて。

天守が国宝指定された5城の一つ。

(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城) 

 

期待に胸膨らませて、いざ出陣!

 


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ぶらっと瀬戸内海「生口島」

娘と一緒に実家に帰省したついでに、生口島を訪れました。

尾道港を出港して30分ほどのクルージング。

船は生口島 瀬戸田港に到着。 

 


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【第28回】ぶらっと麻布十番散歩「麻布七不思議の謎を巡る」を実施しました!

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新年初歩き「文京区(水道橋~本郷~本駒込)」をぶらっと散歩

《新年初の街歩きは文京区(水道橋~本郷~本駒込》

 

2020年明けまして、おめでとうございます。

新年初のぶらっと散歩は文京区を歩いてみました。

八百屋お七は目黒、忠犬ハチ公は渋谷など、既に文京区以外で歩きましたが、今回はこれらの文京区に残る史跡を巡りました。

また、本年もよろしくお願いします。

 

1.東京大学 弥生キャンパス農学資料館「上野英三郎博士とハチ公」

 

秋田県大館市で生まれた秋田犬のハチ公は生後間もなく、東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に贈られました。

 

上野博士は精一杯このハチ公を可愛がり、当時、駒場にあった農学部への通勤や出張の際は渋谷駅まで送り迎えをさせたそうです。

当時は飼い犬でもつないでなかったのですね、自由に犬が街を歩いていたようです。

 

学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んでいました。

 

上野博士とハチ公の楽しい時間はそんなに長くはありませんでした。 

1年半後、大正14(1925)年5月21日、博士は大学構内で急死してしまいます。

 

それから、ハチ公は死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の帰りを待っていました。

 

生前、博士が長期出張から帰ってきたとき、渋谷駅の改札口で待っていたハチ公が博士に飛びついて、じゃれ合っている様子がこの銅像です。  

 


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「麻布七不思議」って何?

《麻布七不思議の痕跡を巡る!》

 

1.麻布七不思議とは何か?

  

実際、いろいろな話があり、なかなか定義が難しいのですが、ここは「麻布総合支所」に行き、職員の方に話を伺いました。

地下に連れていってもらうと、「麻布七不思議」と書かれた壁画のようなものがありました。

 

(一)永坂の脚気石

かつてここには五嶋近江守屋敷があり、その門前に「かなめ石(永坂の脚気石)」がありました。

この石に塩を供えてお願いをすると足の病気に効くと評判だったらしい。

当時、脚気が流行っていたので人気があったのかもしれません。

 

その後、道の中央にその石があって通行の邪魔になるので移動しようとしたが、根が深くまで伸びていて、びくともしなかったと伝わります。

 

明治になって露出部分は取り除かれましたが、その根っこはいまだに土中にあるらしいです。

 

 


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【番外編】ぶらっと散歩「新吉原跡」を実施しました!

2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
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【第27回】ぶらっと江戸事件散歩「高輪」を実施しました!

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明治から昭和の痕跡を訪ねる「乃木坂~赤坂~六本木」

2.26事件慰霊像(渋谷)
2.26事件慰霊像(渋谷)

《ぶらっと「乃木坂~赤坂~六本木」あたりを明治から昭和に起こった事件の痕跡を探索しながらゆっくりと歩きました!》

 

1.高橋是清翁記念公園 

 

明治時代後期、日本金融界の重鎮で、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家、高橋是清(1854~1936)の邸宅跡。

赤坂御所と向かい合う場所にあります。

 

邸宅は移築され、現在は都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」で公開されており、私も行ったことがあります。

ガイドの方に「ここが2.26事件で是清公が襲われた部屋です」と案内されたのを覚えています。

 

2.26事件」

昭和6(1931)年の満州事変でさらに軍の独走は強まり、内部では皇道派、統制派の対立による緊張が高まっていた。

ただ、いずれも軍が日本を動かして体制を整え、戦争に突入していくという考えに変わりはなかった。 

 

主流派として要職を押さえていた統制派の首領ともいえる永田鉄山軍務局長が1935年、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に白昼、陸軍省内で斬殺される事件が起きる。 

相沢は捕らえられ、また、皇道派青年将校が多く配属されていた第一師団が満州に出征することになる。 

 

相沢中佐を救い、昭和維新を断行するのはこの機会しかないと反乱計画を実行に移すことを決めた。

参加した部隊は「歩兵第三連隊900人強」「歩兵第一連隊約450人」「近衛歩兵第三連隊約60人」などで1500人強。

 

決起将校らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。

 

彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。

天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。

叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。(渋谷にあるその現場跡に碑が残っています)

これが2.26事件の概要です。

 

この事件に参加した「歩兵第三連隊」「歩兵第一連隊」「近衛歩兵第三連隊」の痕跡、および明治から昭和に至る歴史の舞台となった場所を散策しました。

 


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ついに見学できました!「旧島津公爵邸」

ついに禁断の園、清泉女子大学内にある「旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館」を見学することができました。

 

実は昨年、平日に当大学を訪れ、旧島津公爵邸を拝見したいと正門前に守衛さんにお願いしたのですが、NGとのことで、「来年の学園祭の頃にお越しください」と言われていたのを思い出して、訪問したのです。

 

1年越しで見ることができた洋館、素晴らしいです!!

こちらの学生はこの建物を何と教室として使用できるのです、羨ましいです・・

 


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ぶらっと江戸事件散歩「芝~三田~高輪」

《ぶらっと「芝~三田~高輪」あたりを江戸時代に起こった事件の痕跡を探しながら歩いてみました!》

 

1.東禅寺

 

慶長15(1610)年の創建。

安政6(1859)年、日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在。

安政7年1月7日(1860年1月29日)、公使オールコック付きの通訳小林伝吉が門前で2人の侍に殺害されました。

 

文久元(1861)年、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。

オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。

 

文久2(1862)年には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺された(第二次東禅寺事件)。

 

7年に及ぶ英国公使宿館により東禅寺の檀家である諸大名の離檀を招き、経済的な支援もなくなり、境内は荒涼の一途をたどりました。

 

当時はここから江戸湾が見られたのですね。

 

 


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【第26回】ぶらっと深川下町「清澄白河」を実施しました!

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【第25回】ぶらっと千住宿「北千住」を実施しました!

千住宿復元模型(マルイ10階)
千住宿復元模型(マルイ10階)
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ものづくりの街「清澄白河」をぶらっと散歩

清澄白河駅内展示「下町の華・技と情」
清澄白河駅内展示「下町の華・技と情」

1.「下町の華・技と情」

 

この写真は清澄白河駅内に展示されている作品で、通りがかったときに見つけました。

 

何と作者は江東区立深川第六中学校の皆さんで、平成9年度の卒業記念制作だそう。

 

下町の華である花火を囲む装飾にはこの地域の伝統工芸の技法が使われており、外側の枠組みには「江戸更紗」、内側には「江戸彫り」の木板と江戸切子を施したガラスの丸皿が配置されています。

 

この制作に関しては江東区登録無形文化財の認定をされている職人さん達のご指導を直接受けたそうです。

印象に残る最高の卒業制作ですね。

 


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龍馬の許嫁が住んだ街「北千住」を再訪

現在の千葉さな灸治院跡
現在の千葉さな灸治院跡
千葉さな 千葉灸治院跡(昭和42~3年頃)
千葉さな 千葉灸治院跡(昭和42~3年頃)

先日、購入した書籍「龍の袖」を読んで、坂本龍馬の許嫁だった千葉佐那の人生を振り返る機会を得て、また佐那に対する想いが高まり、再度、北千住へ。

 

約1年前、ここ北千住の「千葉灸治院跡」を訪ねましたが、その時に比べると説明板などが傷んでいて、佐那ファンの私としては、少し複雑な気分。

 

《佐那と龍馬の出会い、その後》 

龍馬が初めての江戸剣術修行で世話になった桶町千葉定吉道場の娘「佐那」との運命の出会い。

しかし、龍馬はおりょうと結婚し、非業の最期を遂げてしまいます。

 

この「龍の袖」では龍馬の死後、佐那は父定吉の反対を押し切って結婚したことにもふれています。

その間、やはり龍馬のことが心から消えない佐那は、女として幸せになれなかった。

 

その後、学習院女子部の舎監を経て、ここ千住の町で千葉灸治院を開業して生計を支えながら暮らし、明治29(1896)年10月15日59歳で亡くなりました。

 

龍馬は姉乙女にあてた手紙の中で、佐那のことを幼なじみの平井加尾より少しよいと伝えています。

 

また、宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録には、安政3(1856)年に19歳だった佐那が、伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されています。

「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っています。

どんな女性だったのでしょうか?

 

残念なことに、いまだに、佐那の写真は見つかっていません。

出来ることなら、世紀の発見により写真が出てきて一度お目にかかりたい。。。

 

 


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日本最大の城「江戸城跡(皇居)」をぶらっと散歩!

先日の江戸城跡を巡る散歩の続きです。

今回は宮内庁ホームページにあった皇居ツアーに参加しました。

普段入れる東御苑とは違う場所を見られるということで期待大です。

 

実は次回のぶらっと散歩は「江戸城跡」を計画していたのですが、東御苑が大嘗祭の準備のため、9月は工事中で歩けるところが半減することが判明。

止む無く今回はあきらめ、次々回11月後半から12月に「江戸城跡」をやります!

 

1.巽櫓 

桜田巽櫓とも呼ばれ、櫓の中には鉄砲、弓、長柄、持筒などが備えられていました。

江戸城には隅櫓(すみやぐら)だけでも20 基以上ありましたが、現存しているものは桜田二重櫓のほか、富士見(三重)櫓、伏見(二重)櫓の三基のみです。 

 

 


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【第24回】ぶらっと内藤新宿「四谷~新宿」を実施しました!

太宗寺「奪衣婆像」
太宗寺「奪衣婆像」
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「内藤新宿」起源の痕跡を巡る

7月7日のぶらっと内藤新宿の下見を兼ねて新宿を散策。

 

1.多武峯(とおのみね)内藤神社「駿馬伝説」

 

徳川家康が江戸入府して、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し、「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったという伝説があります。

 

その時、清成の乗った馬は南は現在の千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、帰ってきて疲れ果てて死んでしまい、大樫の下に埋められたと伝わります。

 

後に内藤家の森林の管理役だった中家休昌と木下正敷が文化13(1816)年8月に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てました。

この碑はその後、明治5(1872)年に現在の地に移されたものです。

 

この馬が頑張らなかったら、内藤新宿はもっと狭い宿になっていて、現在の新宿の賑わいもなかったかもしれません。。。(笑)

 

  


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ぶらっと広島の酒都「西条」を巡る

広島の酒処「西条」を巡りました。

 

1.西条酒蔵通り 

 

広島の酒都「西条」にある酒蔵通り。

こちらには7軒の酒蔵が徒歩圏内にあります。

何とこんな狭い範囲に7軒もの酒蔵が密集している街は全国でもここだけとか。

 

明治・大正・昭和の風情ある酒蔵や建物が残る通りを街発見散歩です。

 

どんな酒蔵があるのかワクワクです。

 


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ぶらっと「江戸城跡」を巡る

本日の江戸時代の痕跡を巡る街歩きは江戸城跡(皇居東御苑)です。

 

1.大手門 

 

諸大名が威儀を正して登城した江戸城の正門。

慶長12(1607)年、藤堂高虎によって完成した後、元和6(1620)年の江戸城修築の際、伊達政宗によって、高麗門と渡櫓門(わたりやぐらもん)で構成された典型的な枡形門(ますがたもん)になりました。

 

現存する高麗門は、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、万治2(1659)年に再建されたものです。
江戸時代の渡櫓門は、昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和41年の東御苑開園に伴い、昭和40年から復元工事が行なわれました。

 

(藤堂高虎)

この江戸城改築の功で慶長13(1608)年には伊予今治藩12万石から津藩22万石に加増転封され、今治城は高虎の養子・藤堂高吉を城代として治めさせています。

家康は藤堂高虎の才能を評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用しています。

城攻めのうまさは逆に防御の堅固さにも通じる。

家康が命じた築城は伏見城・江戸城をはじめ、8か所、城の縄張は加藤清正と並び称されました。

 

家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えています。

 

 


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【第23回】ぶらっとロマン散歩「奥浅草・吉原跡」を実施しました!

2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
2018浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
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ぶらっと内藤新宿「四谷~新宿」を巡る

1.新宿歴史博物館「内藤新宿」

 

慶長9(1604)年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、街道沿いに宿場が整備されました。

甲州街道最初の宿場は、慶長7(1602)年に設けられた高井戸宿でしたが、日本橋から約4里(約16km)と遠かったので不便でした。

このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大変でした。

 

元禄10(1697)年、幕府に対し、浅草の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出ました。

 

翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。

日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなりました。

 

宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などがあてられ、元禄12(1699)年に内藤新宿が開設されます。

宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来します。

 

内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に区分されていました。

 

宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めました。

 


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ぶらっと「拝島 玉川上水」を巡る

1.拝島

 

安土桃山時代の本殿が残る熊川神社や玉川上水開削工事跡など、玉川上水と熊川分水に沿って旧熊川村の歴史を巡りながら散策し、最後は江戸時代から続く老舗の石川酒造で、ランチを食すぶらっと散歩です。

 

 


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【第23回】ぶらっとロマン散歩『奥浅草・吉原跡』のリリースとホームページ機能回復のお知らせ

【第23回】ぶらっとロマン散歩『奥浅草・吉原跡』をリリースしました。

 

今回はあの賑やかな浅草ではなく、しっとりした「奥浅草」、その中でも江戸時代、遊郭があった「吉原跡」を巡ります。

江戸文化の発信地でもあった「吉原」。

そこには歌舞伎や芝居の舞台にもなった物語があり、そのエピソードと一緒にその痕跡を散策します。

 

ランチは昭和レトロなお店の「絶品釜めし」をメインにした和食。

釜めしが炊けるまで、お酒を飲みながら、参加者同士でワイワイガヤガヤやるのも楽しい時間です。

 

皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

*ホームページのお申込み機能が復活しました!

 皆様には大変ご迷惑をおかけしました、従来通り申込が可能となりましたのでよろしくお願いします。

 

 もちろん、従来通り、facebook、メール、電話でもご参加を承ります。

                                 以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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【第22回】ぶらっと東京酒蔵「澤乃井」を実施しました!

唎酒処
唎酒処

1.4月28日(日)、ぶらっと東京酒蔵「澤乃井」を実施しました!

 

当日は珍しく、天候に恵まれ、気持ちよくマイナスイオンを浴びて、ウォーキングをした後、お待ちかねのランチと唎酒をしました。

ご参加頂いた皆さん、朝からテンションmaxで、ほとんどの方は飲む気満々(笑)!!

 

早速、御嶽駅を出発し、御岳渓谷遊歩道に入ります。

 

 


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ぶらっと散歩はお蔭様で20回を超えました!

ぶらっと散歩は2016年2月に第1回を開催し、丸3年を経過した2019年2月「上野寛永寺」で、ついに第20回となりました!

これもご参加いただいたお客様、そして、立ち上げ当初にいろいろとご協力いただいた方など、本当に皆様のお陰だと感謝申し上げます。

 

今、世の中には街歩きのイベントがあちこちで開催されています。

「ぶらっと散歩」はそれらとは一味違った街歩きを目指してやってきました。

 

表記は、第1回目から第10回目までをまとめたものです。

 

第5回であの清澄庭園をやっていたのですね。

食事は初めて、ケイタリングのフレンチをご用意しました。

そのときに、使用した紙の使い捨て皿(WASARA)はそのフォルムの特長だけでなく、エコの観点から土に還る素材を使用しているので、最近、海外でも流行っているそうです。

なにやらその先駆けをやることができたようで、よかったです。

 

第8回の「柴又」。

ご存知「フーテンの寅さん」の聖地です。

そんな昭和の風景を巡りながら、「矢切の渡し」に乗って、ゆったり川を渡りました。

ランチは金曜、土曜、日曜、週末限定営業の超こだわりのそばを、メニューにない「街発見くらぶ限定コース」でいただきました。

店主のそばに対するこだわりがすごく、いろいろな資料を拝見させていただき、興味の尽きない散歩でした。

 

第9回目の「吉原」。

この会、実は最小人数(2名)の参加者で実施しました。

ランチは私の大好きな「穴子」をお店の大将と相談して刺身を含むフルコースでお出ししました。

私的にはこの時の食事はかなり美味しかったと思っているのですが、参加人数が一番少なくてとても残念でした。

なかなか、思うようにはいかないですね。

 

facebookでも紹介しています

 https://www.facebook.com/nomisuke1958/posts/842914652737783?comment_id=842994122729836&notif_id=1555573873690076&notif_t=comment_mention

 

その2(11~20回)に続く ~ 

 

 

 


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ぶらっと日本最初の世界文化遺産「法隆寺」に行ってきました!

《小学校の修学旅行以来、奈良の法隆寺に行ってきました!》

 

1.日本最初の世界文化遺産「法隆寺」

 

用明天皇が自らの病気の平癒を祈って、寺と仏像を造ることを願っていましたが、その実現の前に崩御されてしまいます。 

そこで、聖徳太子と推古天皇が用明天皇の遺願を次いで、7世紀初めに創建しました。

 

金堂や五重塔などは世界最古の木造建築として、知られています。

1993年に姫路城などと共に日本で初めて世界遺産として登録されています。

 


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ぶらっとディープ散歩「新宿二丁目」

《夜はディープな街「新宿二丁目」を歩きました!

1.太宗寺

 

太宗寺はこのあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元(1596)年頃にさかのぼると伝わります。

 

太宗は次第に住民の信仰を集め、さらに現在の新宿御苑一帯を拝領していた内藤家の信望も得て、寛永6(1629)年の五代正勝の葬儀ではその一切を取り仕切り、墓所もここに置くことになりました。

 

こうして六代重頼から寺領の寄進を受けてできたのが、現在の太宗寺の由来です。

 

「閻魔像」

木造で文化11(1814)年に安置されたもの。(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直された)

 

弘化4(1847)年には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になったそうです。

 

 


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2019年3月30日10時現在、お申込み機能が故障しています!

2019年3月30日10時現在、お申込み機能が故障しています。

 

お客様には大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。

「ぶらっと東京酒蔵散歩」にお申し込みの際は「電話 080-1336-4720」 もしくは「メール hirohide-fujii@sunny.ocn.ne.jp」  でお願い致します。

 

故障回復次第、また当ブログにてご連絡致します。

 

/街発見くらぶ 藤井

 

 

 

 

 

 


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ぶらっと東京酒蔵「石川酒造」

《ぶらっと東京酒蔵「石川酒造」に行ってきました!》

 先月は青梅の先、沢井駅にある澤乃井に行きましたが、今回は石川酒造に行ってきました!

 

1.石川酒造

東京酒蔵第二弾!

青梅線 拝島駅を出て、徒歩20分、石川酒造に行ってきました。

実は2度目の訪問ですが、前回は随分前なのでよく覚えていません(笑)。

 

さて、こちらは文久3(1863)年の創業。

多摩川の対岸小川村(現あきるの野市)の森田酒造の蔵を借りて酒造りを始めたそうです。

森田酒造の「八重菊」と姉妹関係ということで当初の銘柄は「八重桜」。

 

その後、大正8(1919)年に「八重梅」と改め、昭和9(1933)年から現在の『多満自慢』になりました。

 

 

 

 


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ぶらっとお台場「レインボーブリッジと砲台跡」

1.《ぶらっとお台場「レインボーブリッジと江戸の砲台跡」を歩きました!》

 

レインボーブリッジは東京都港区芝浦と台場地区を結ぶ吊り橋で、1987年着工、1993年竣工、同年8月26日開通しました。

 

ここを車で通過するときの眺めは有名ですが、遊歩道があることはあまり知られていないのではないでしょうか。

片道約1.7km、約30分の絶景散歩スポットですが、下を見ると、かなりの迫力で橋げたの高さは52mだそうです。

 

歩いているとき、気づいたのですが、橋の下を見ると、どうも下半身がスースーするんです。

スカイツリーは建物の中なので大丈夫ですが、ここは橋の上、風は強いし、恐怖を感じます。

高所恐怖症かなぁ(^ω^)・・・

 

ギリギリの場所まで行ってスマホで写真を撮る、これが結構難しいんです。

 

ヤバいです・・(笑) 

 


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幕末ぶらっと散歩「飯田橋~九段下」

《ぶらっと「飯田橋~九段下」あたりを幕末の痕跡を探しながら歩いてみました!》

 

1.江戸城牛込門跡

牛込見附は上州道に通じる交通の要所であり、神楽坂通りのまわりに多くの旗本家臣などを役職ごとに住まわせた組屋敷から江戸城への登城道でした。

 

外堀が完成した1636年に阿波徳島藩蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。

これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。  

 

もしも、石垣の上の建物も残っていたら、神楽坂の雰囲気がちょっと変わったものなったかもしれませんね。

 

 


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ぶらっと東京酒蔵「澤乃井」

《ぶらっと酒蔵「澤乃井」に行ってきました!》

 

1.澤乃井

青梅線 沢井駅を出てすぐ、小沢酒造(澤乃井)に、呑兵衛の友人と一緒に行ってきました。

私は2度目ですが、酒好きの友人は初めてなので前日からワクワクだったようです(笑)。 

 

さて、こちらは元禄15(1702)年創業、300年以上の老舗酒蔵。

 

このあたりは、その昔「沢井村」と呼ばれており、その地名に因んで命名されたとあります。

「沢井」とは、豊かな名水が沢となって流れるところからつけられた地名。

 

澤乃井のマークに沢蟹もついています。

 

 


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ぶらっと東海道ディープ散歩『品川』

《旧東海道の痕跡を巡るディープ散歩》

 

品川~大森周辺でを江戸を感じられる場所を巡りました。

 

1.品川寺「銅造地蔵菩薩坐像」

弘法大師空海を開山とし、大同年間(806 – 810年)に創建されたと伝わります。

スイス・ジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあります。

 

「梵鐘のエピソード」

明暦3(1657)年の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進と言われています。

この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝わりますが、その後、所在不明となっていました。

大正8(1919)年、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始。

外務大臣幣原喜重郎ほかの尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5(1930)年、同市の好意により品川寺に返還されました。

平成3(1991)年には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られ、品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となりました。

 

私はスイス ジュネーヴに行ったことはありませんが、この梵鐘はスイス帰りなんですね。

 

   


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【第20回】ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」を実施しました!

徳川綱吉霊廟勅額門
徳川綱吉霊廟勅額門

2月11日(日)ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」を実施しました!

 

本日のメインイベントは寛永寺にある歴代将軍 御霊廟の特別参拝です。

2ケ月前に抽選に申し込み、運よく当たりました!

 

今回の「ぶらっと散歩」はちょうど20回目。

たまにはこのような珍しい見学もいいかなと思い、企画しました。

実は私自身も初めての参拝で興味深々でした。

 

ではまず、上野公園からスタート。 

 

 


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ぶらっと散歩(2/10)下見の続きです!

《ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺(2/10)」下見の続きです!》

 

1.旧博物館動物園駅跡『アナウサギ』

 

前回の下見では中まで入れなかったので、今回は10時に現地に行き、入場券をゲット!

21年と8ケ月ぶりにこの駅は目覚めて、私たちの目にふれています。

 

入口に展示してあった ”地面に顔がめり込んだうさぎ” 

 

土を掘って巣を作る 『アナウサギ』だそうです・・・(笑)

 

 


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ぶらっと散歩(2/10)の下見で「上野」に行ってきました!

《ぶらっと歴史散歩「上野寛永寺」(2/10)の下見に行ってきました!》

 

上野公園を出て東京国立博物館の前を通って黒田記念館の前。

 

1.旧博物館動物園駅跡

 

1933年に京成電鉄の駅として開業し、97年に営業停止、2004年に廃止された旧博物館動物園駅。

開業当時、駅舎の建設予定地が御料地だったため、御前会議で昭和天皇の勅裁を受けて建設されたそうです。

 

開業以降は東京帝室博物館(現 東京国立博物館)や恩賜上野公園の最寄駅として利用されていました。

 

営業休止後、2018年4月に、鉄道施設として初めて「東京都選定歴史建造物」に選定されました。

 

2019年2月24日までの金土日曜日限定で内部が公開されています。

しかし、各日10時までに現地に行き、入場券をもらわなくてはならないようです。

 

外観のクラシカルで荘厳な雰囲気がたまりませんね。。 

 

 


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幕末維新ディープ散歩『 龍馬・晋作が生きた街(品川) 』

《幕末維新の痕跡を巡るディープ散歩》

 

品川周辺で幕末を感じられる場所を巡りました。

 

1.立会川 北浜川児童遊園「坂本龍馬像」

 

 ペリー艦隊が来航した嘉永6(1853)年、ここ立会川には、土佐藩品川下屋敷があり、その近くに土佐藩が幕府に願を提出し許可を受けて、翌年造った浜川砲台がありました。

 

その頃、龍馬は藩から許可を得て、江戸で剣術修行中でした。

 

土佐藩はこの下屋敷警護のため、江戸詰めの武士を動員してあたらせました。

その中に19歳だった龍馬もいて、当時父親へ宛てた手紙には『…異国船所々に来たり候へば、いくさも近き内と存じ奉り候、その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候』と、この当時の龍馬はまだ単純な攘夷に燃える青年でした。

 

北浜川児童遊園に建てられた2番目のこの龍馬像は、当時、立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現しており、履物もブーツではなく草履を履いています。

 

また、この像には、高知県桂浜の像が平成11年修復されたときの金属片が溶かし込んであるそうです。

 

   


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【第19回】ぶらっと幕末歴史散歩「桜田門外の変」を実施しました!

12月23日(日)、あいにくの天候でしたが、ぶらっと幕末歴史散歩「桜田門外の変」を実施しました!

 

《桜田門外の変》

安政7(1860)年3月3日午前9時頃、節句の賀詞を述べるため、供回り約60名を従え、彦根藩邸を出た大老井伊直弼は400mほど離れた桜田門外で、 18名の浪士(水戸17、薩摩1)に襲われ、命を落としました。

 

1.この事件が起こった背景

①ペリー来航以来のグローバル化への対応(攘夷)

②国内は将軍継嗣問題

③井伊が勅許なしで日米修好通商条約に調印したことへの反発 

 

2.これに対する井伊直弼の強烈な弾圧(安政の大獄)

 

これに憤慨した水戸脱藩浪士たちの暴発テロが「桜田門外の変」です。

 

今回はこの「桜田門外の変」に関連した史跡を巡る散歩でした。

 


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幕末維新歴史散歩「上野戦争」

《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》

 

今回は激烈な戦闘が行われた上野戦争の痕跡を巡ります。

上野と言えば、やはり西郷どんからスタート

 

1.上野公園「西郷隆盛像」

 

彰義隊は江戸無血開城後、江戸市中の警備を旧幕府から任されていました。

それは新政府軍の兵力が足りず、江戸市中の治安維持まで手が回らなかったからです。

 

しかし、彰義隊と新政府軍は江戸の各所で衝突を起こしたので、新政府軍は江戸の治安維持権限を旧幕府から奪い、軍司令官も西郷隆盛から大村益次郎に変更しました。

 

大村は彰義隊の江戸市中取締りの任を解き、武装解除するよう命じますが、彼らは簡単に応じることはなく、大村は彰義隊討伐をすべく、寛永寺正面口の黒門口と西側面となる谷中口から攻撃を行うことにしました。

そのとき、北の根岸方面はあえて手薄にして逃げ道を作りました。

 

黒門口は敵を高台に見るため、新政府軍にとっては不利になりますが、大村はそれを分かったうえで、薩摩兵に攻撃を命じます。

この指示に対し、西郷は「薩摩兵を皆殺しにするつもりか!」と聞くと、大村は「そうです」と答えたと伝わります。

 

当時、薩摩兵は最強だったので、当然といえば当然かもしれませんが、西郷に対し、そう言い切った大村もなかなかの人物ですね(笑)。

 

西郷の像ですが、その死から21年後の明治31年12月18日の除幕式が執り行われましたが、遺族として参列した糸子夫人はこの像を見て「あらよう!宿ンしはこげなお人じゃなかったこてぇー」と声を上げたそうです。

 

その意味するところは?

人前でこんな恰好をする人ではなかった?   顔が違う?

 

当初は軍服で騎馬姿が予定されていましたが、一部の反対で今の犬を連れてウサギ狩りに行く姿に変更されたようです。

今となっては、その姿に親しみを感じる人も多いのではないでしょうか・・・。

 

 


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【第18回】ぶらっと江戸下町散歩「佃・月島」を11月25日(日)に実施しました!

11月25日(日)、ぶらっと江戸下町散歩「佃・月島」を実施しました!

 

《佃島と月島の歴史》

1582年に起こった本能寺の変、話はここまでさかのぼります。

この直後、徳川家康は岡崎城に戻ろうとしますが、摂津国西成郡佃島で難渋します。

その時、近くに住んでいた佃村の漁師が漁船と保存食の小魚煮を用意して、家康一行が逃げるのに協力しました。

 

この時の恩を忘れなかった家康はその後、世話になった森孫右衛門一族を江戸に呼び寄せます。

彼らは隅田川河口にあった干潟を拝領し、ここを埋め立てて、島を造り、出来た島が故郷にそっくりだということで、旧村の名をとって「佃島」としました。

 

孫右衛門たちは様々な特権を与えられました。

”森”という姓、白魚の漁業権、税金の免除、武家屋敷への出入り許可など、そして彼らは徳川家に魚を運ぶとき、大名行列を横切ることが出来たのです。

本来、大名行列を横切ったら、あの「生麦事件」のようになるところですから、いかに特別な関係だったかが分かります。

ゆっくり、大名行列が通り過ぎるのを待っていたら、魚が腐りますよね、だからかな(笑)

 

ビックリしたのは白魚献上の習慣は何と現在でも続けられているとか。

漁民たちも徳川様の御恩を忘れなかったのですね。

 

一方の月島は明治になって、隅田川の川底に堆積した土砂が船の運航に支障をきたすようになったので、その土砂を処分して埋め立てて出来たのが月島です。

 

 


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幕末維新歴史散歩「桜田門外の変から」

《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》

 

スタートは国会議事堂近くにある「桜田門」。

幕末の定義にはペリー来航など、いろいろあるかと思いますが、ここでは『桜田門外の変』が起こった場所から。

 

1.桜田門

この地が古代に”桜田郷”と呼ばれていたことが名前の由来だそう。

また、江戸の主要道が通過する場所で、小田原街道の始点にあたるので「小田原口」と呼ばれていました。

門周辺の石垣は慶長19(1614)年、真壁藩(現茨城県)藩主 浅野長重により築かれ、寛永年間(1624~1644)年に門が建てられました。

 

大正12(1923)年の関東大震災で一部破損しましたが、その後再建され、現在に至っています。

 

現在、桜田門の正面[豊後杵築(ぶんごきつき)藩 松平家屋敷跡]には警視庁があります。

 

 


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