12月23日(日)、あいにくの天候でしたが、ぶらっと幕末歴史散歩「桜田門外の変」を実施しました!
《桜田門外の変》
安政7(1860)年3月3日午前9時頃、節句の賀詞を述べるため、供回り約60名を従え、彦根藩邸を出た大老井伊直弼は400mほど離れた桜田門外で、 18名の浪士(水戸17、薩摩1)に襲われ、命を落としました。
1.この事件が起こった背景
①ペリー来航以来のグローバル化への対応(攘夷)
②国内は将軍継嗣問題
③井伊が勅許なしで日米修好通商条約に調印したことへの反発
2.これに対する井伊直弼の強烈な弾圧(安政の大獄)
これに憤慨した水戸脱藩浪士たちの暴発テロが「桜田門外の変」です。
今回はこの「桜田門外の変」に関連した史跡を巡る散歩でした。
《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》
今回は激烈な戦闘が行われた上野戦争の痕跡を巡ります。
上野と言えば、やはり西郷どんからスタート
1.上野公園「西郷隆盛像」
彰義隊は江戸無血開城後、江戸市中の警備を旧幕府から任されていました。
それは新政府軍の兵力が足りず、江戸市中の治安維持まで手が回らなかったからです。
しかし、彰義隊と新政府軍は江戸の各所で衝突を起こしたので、新政府軍は江戸の治安維持権限を旧幕府から奪い、軍司令官も西郷隆盛から大村益次郎に変更しました。
大村は彰義隊の江戸市中取締りの任を解き、武装解除するよう命じますが、彼らは簡単に応じることはなく、大村は彰義隊討伐をすべく、寛永寺正面口の黒門口と西側面となる谷中口から攻撃を行うことにしました。
そのとき、北の根岸方面はあえて手薄にして逃げ道を作りました。
黒門口は敵を高台に見るため、新政府軍にとっては不利になりますが、大村はそれを分かったうえで、薩摩兵に攻撃を命じます。
この指示に対し、西郷は「薩摩兵を皆殺しにするつもりか!」と聞くと、大村は「そうです」と答えたと伝わります。
当時、薩摩兵は最強だったので、当然といえば当然かもしれませんが、西郷に対し、そう言い切った大村もなかなかの人物ですね(笑)。
西郷の像ですが、その死から21年後の明治31年12月18日の除幕式が執り行われましたが、遺族として参列した糸子夫人はこの像を見て「あらよう!宿ンしはこげなお人じゃなかったこてぇー」と声を上げたそうです。
その意味するところは?
人前でこんな恰好をする人ではなかった? 顔が違う?
当初は軍服で騎馬姿が予定されていましたが、一部の反対で今の犬を連れてウサギ狩りに行く姿に変更されたようです。
今となっては、その姿に親しみを感じる人も多いのではないでしょうか・・・。
11月25日(日)、ぶらっと江戸下町散歩「佃・月島」を実施しました!
《佃島と月島の歴史》
1582年に起こった本能寺の変、話はここまでさかのぼります。
この直後、徳川家康は岡崎城に戻ろうとしますが、摂津国西成郡佃島で難渋します。
その時、近くに住んでいた佃村の漁師が漁船と保存食の小魚煮を用意して、家康一行が逃げるのに協力しました。
この時の恩を忘れなかった家康はその後、世話になった森孫右衛門一族を江戸に呼び寄せます。
彼らは隅田川河口にあった干潟を拝領し、ここを埋め立てて、島を造り、出来た島が故郷にそっくりだということで、旧村の名をとって「佃島」としました。
孫右衛門たちは様々な特権を与えられました。
”森”という姓、白魚の漁業権、税金の免除、武家屋敷への出入り許可など、そして彼らは徳川家に魚を運ぶとき、大名行列を横切ることが出来たのです。
本来、大名行列を横切ったら、あの「生麦事件」のようになるところですから、いかに特別な関係だったかが分かります。
ゆっくり、大名行列が通り過ぎるのを待っていたら、魚が腐りますよね、だからかな(笑)
ビックリしたのは白魚献上の習慣は何と現在でも続けられているとか。
漁民たちも徳川様の御恩を忘れなかったのですね。
一方の月島は明治になって、隅田川の川底に堆積した土砂が船の運航に支障をきたすようになったので、その土砂を処分して埋め立てて出来たのが月島です。
《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》
スタートは国会議事堂近くにある「桜田門」。
幕末の定義にはペリー来航など、いろいろあるかと思いますが、ここでは『桜田門外の変』が起こった場所から。
1.桜田門
この地が古代に”桜田郷”と呼ばれていたことが名前の由来だそう。
また、江戸の主要道が通過する場所で、小田原街道の始点にあたるので「小田原口」と呼ばれていました。
門周辺の石垣は慶長19(1614)年、真壁藩(現茨城県)藩主 浅野長重により築かれ、寛永年間(1624~1644)年に門が建てられました。
大正12(1923)年の関東大震災で一部破損しましたが、その後再建され、現在に至っています。
現在、桜田門の正面[豊後杵築(ぶんごきつき)藩 松平家屋敷跡]には警視庁があります。
「銀ブラ」、今でもこんな風にいうのでしょうか。
そんな銀座のなかでも「THE 昭和」を感じられる場所を探して街発見散歩。
1.交詢社ビル
明治13(1880)年に福沢諭吉が提唱して、結成された日本初の実業家社交クラブが「交詢社」
その名前の由来は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来します。
その後、法人制度改革により一般財団法人に改組されています。
6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングを所有しており、「交詢社通り」という地名にもなっています。
昭和4(1929)年に建てられた歴史的建造物でしたが、2004年に以前の建物の一部を保存しつつ、建て替えられました。
東京のど真ん中、銀座1丁目から8丁目まで、ぶらっと散歩。
といっても、出来るだけ人通りの少ない、レトロを感じる場所を選んで歩きました(笑)
1.京橋
慶長8(1603)年創建と言われる日本橋とほぼ同時期に架けられたと伝わります。
昭和38~40年の京橋川埋め立て工事に伴って撤去されましたが、その当時の ”石造りの親柱二基” と ”石及びコンクリート造りの親柱” が残っています。
石造りの二基は明治8(1875)年に石造アーチ橋に架け替えられたときのもの、もう一方は大正11(1922)年、アール・デコ風に架け替えられたときのものです。
当時の写真と一緒に見ると、目の前に当時の情景が浮かぶような気がします。
10月7日(日)、珍しく天候にも恵まれ、ぶらっと深川散歩「清澄白河」を実施しました!
何と今回のランチ懇親会のお客様は17名、過去最多の参加者です。
街歩きも14名と多くの方に参加いただきました。
清澄庭園「涼亭」での懇親会も3回目を迎え、もうこれが最後ですということで、リピーターの方含め、新規の方にも参加いただきました。
今回は「深川」の発祥の地から、広重やゴッホが描いた「新大橋」など、深川を代表するスポットを街発見散歩です。
さあ、10月の天気とは思えないような暑い中でのスタートです。
1.月島といえば、もんじゃ
次々回のぶらっと散歩の下見で月島へ。
娘が「ご飯付き合ってもいいよ」というので一緒に、海鮮もんじゃとお酒がウリのお店へ。
実は私、外でもんじゃを食べるのは、2回目、もんじゃ初心者です(笑)
前のブログにも書きましたが、ここ月島は銀座から約2kmの距離で、この雰囲気。
また、ちょっと歩いて佃に行くと「船溜まり」と「高層マンション群」のコントラスト。
これも東京(江戸)の魅力ですね。
初訪問だったので、まずは御推奨の「お二人様用コース」を頼みました。
9月8日(土)、珍しく天候にも恵まれ、ぶらっと”粋”散歩「向島」を実施しました!
今回のお客様は4名、それも全て女性。
これは初めてのことであり、主催者としては、ちょっと緊張しながらのスタートとなりました(笑)。
今年は特に暑いですね。
まだまだ暑い日が続きますが、皆様、体調はいかがでしょうか。
9月8日(土)にはぶらっと”粋”散歩「向島」を実施する予定ですが、その次の10月の予定が出来上がりました。
3回目になる清澄庭園「涼亭」でのランチ懇親会と深川散歩です。
清澄庭園「涼亭」でのランチは正真正銘、今回が最後です。
ご興味がある方は是非、この機会に体験してみてください。
さて、深川の歴史ですが、徳川家康の入国により、天正18(1590)年から開削が進められていた小名木川の北側を、摂津国出身の深川八郎右衛門他が開拓し、慶長元(1596)年に深川村を創建しました。
家康は塩を江戸市中に運び込むために、掘割(運河)の掘削工事を計画しましたが、掘割のなかで最初に整備されたのが、現在、清澄地区を流れる小名木川。
そのため、この地は江戸初期の時代から「物流の拠点」となり、川沿いには物資を貯蔵する蔵などが多く建ち並んでいたと伝わります。
このような名残の残る街並みをぶらっと散歩。
そしてお待ちかねのランチですが、今回は特別にゼノビッチさんによる薩摩琵琶の弾き語りも楽しんでいただきます。
食事は和食と日本酒の飲み比べです。
こんな内容で実施しますので是非、ご参加くださいませ。
今回の正式なチラシは、娘が作ったものを採用していますが、私が作った従来タイプもありますので、載せてみました(笑)
センスは平成生まれの娘作成のものの方がやはりいいかもしれません。。。
私も精進しなくては・・・
1.佃島と月島の歴史
この情景「船溜まりと高層マンション群のコントラスト」が堪りません。
銀座から、たった2kmの場所で、この雰囲気。
これも東京という街の魅力ですね。
さて、佃島は元々あった島を埋め立てにより拡張した島でした。(現在の佃一丁目辺り)
佃島は江戸時代、漁村で、住民は徳川家康の命で、大阪の佃村から移住してきた漁民です。
この地が、故郷の佃村にそっくりだということで、旧村の名をとって、「佃島」としました。
本能寺の変の時、家康が必死の思いで、領国に戻ろうとしたが、摂津国西成郡佃島で難渋しました。
この時、近くの佃村の漁民たちが漁船と、保存食の小魚煮を用意したと伝わります。(諸説あり)
家康がその小魚煮を気に入って集団移転させ、「佃煮」を作らせたという伝説もあります。
家康に呼ばれた森孫右衛門一族らは、数隻の漁船で行う、大規模な底網漁の一種・地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っていました。
そのため、従来の江戸の漁師とは比較にならない漁獲高を上げ、これによって幕府献上の余りを市中に売買することを可能にしました。
その後、これが日本橋に魚河岸が出来る原点となりました。
一方、月島は明治に出来た人口の島でした。
隅田川の川底に堆積した土砂により船の運航に支障がでたため、浚渫(しゅんせつ)工事が行われました。
その際に出た土砂を処分するために埋め立てられて出来たのが月島です。
明治25(1892)年に東京湾埋め立て1号地(月島)として佃島から先の砂州が埋め立てられ、続いて明治27(1894)年に2号地(勝どき)、明治29(1896)年に新佃島(佃2、3丁目)と続きました。
向島散歩の下見をかねて、ぶらっと散歩してきました。
向島には、今でも伝統を守りながら「粋」を表現する職人さんがいます。
1.江戸木箸 大黒屋 (江戸木箸は大黒屋さんの商標登録だそう)
箸は毎日、食事の際、使う大切な道具。
だからこそ、自分の手に合ったマイ箸で美味しく食べたい。
箸の寿命ってどれくらいでしょうか。1年2年よりは長く使ってますね。
だとしたら、毎日使うものだし、ちょっぴり贅沢品を使うのも、ありかもしれません。
こちらには珍しい「七角形」のお箸もあります。
とても使いやすいそうです。
おっと、高級な「耳かき」もありますよ!
まだまだ暑い日が続きますが、皆様、体調はいかがでしょうか。
来月9月8日(土)、”江戸っ子の粋” という言葉がぴったりの街『向島』をぶらっと食べ歩きします。
春は隅田川沿いの桜花見、夏は花火、秋は月見など四季折々の風情が楽しめる街、向島。
また昔ながらの技法に、現在の世代のご主人たちが自らの工夫を加え、引き継いできた伝統工芸品の数々。
今回は「羽子板資料館」と「江戸木目込人形博物館」を訪問して、その技を見ていただきます。
それから、ここ向島は今でも料亭が10数軒あって、芸者さんも200名近くいらっしゃるそうで、都内でも有数の花街です。夕刻には支度をした芸者さんの姿を見られるかもしれません。
また、桜餅、草餅、吉備団子など老舗の和菓子屋さんもたくさんあり、食べ歩きにもぴったりです。
これらの『粋』を感じながらの3時間散歩です。
お待ちかねのランチは、あっと驚く「いかだ流しそば」のお店です。
ゆっくりといかだにのって運ばれてくる料理を楽しみながら、日本酒で一杯、そして最後に、のどごしのいい手打ちそばでしめる、そんな「通」な食事をご一緒にどうですか。
7月7日(土)、幕末ぶらっと散歩「南千住」を実施しました!
もう絶対に雨だと思っていたのですが、なぜか天候にも恵まれて(暑いくらい)、幕末の史跡を中心に、12名でぶらっと散歩。
南千住駅を出発して、三ノ輪駅周辺まで約3時間の散歩と下町ビストロでワイワイガヤガヤのランチ会です。
江戸時代、向島は、春は花見、夏は花火、秋は月見、冬は雪見というように、四季折々の『粋』が楽しめる景勝の地でした。
今でもそんな風情を楽しめる「技」が見られます。
1.羽子板資料館「鴻月」
館内には様々な押絵羽子板がところ狭しと並んでいます。
これらはすべて、店主が一人で手作りされているとのこと。
目の表情など、全て違うので見ていて飽きません。
押絵羽子板とは中国から伝わった技法で、厚紙に布を張り、綿を入れて立体感を持たせたもの。
当時の浮世絵の流行と相まって、庶民の間で流行して、歌舞伎の人気役者や浮世絵の美人がなど全盛を極めました。
あとを継ぐ人はいるのですかと尋ねると、今はなかなか難しいんですよとのこと。
このような伝統のある「技」はなくしてはならないと思いますが、実際、商売となるとなかなか難しいようです。
女の子の出産祝いや歌舞伎ファンのたしなみなど、江戸情緒が伝わる高尚なお土産として喜ばれているそうですが、最近の少子化で厳しいようです。
中にはとっても可愛らしい小さな羽子板がありました。
これは「豆羽子板」と呼ばれるもので、これも小さくても全部手書き、手作りです。
本当に手間のかかる仕事だと思いましたが、1つ仕上げるのにおよそ2週間くらいで出来上がるとのことです。
意外と早くできるもんだなと感心しました。
私は、江戸時代、幕末に関連した場所を歩くことが多い。
しかし、今回は昭和、それも戦時中の痕跡を訪ねて、王子周辺をぶらっと散歩しました。
王子は以前、王子稲荷や装束稲荷など、狐に纏わる痕跡を歩いたことがありますが、
前回とはちょっと違った王子周辺の一面を見ることができました。
1.「軍都王子」の歴史
天保11(1840)年、高島秋帆が西洋の大砲を採用するよう幕府に建議して10年後、幕府は嘉永3(1853)年に湯島(現 医科歯科大学・順天堂大学付近)に鉄砲製造所を設置しました。
その後、元治元(1864)年、関口水道町(現 文京区江戸川公園対岸)に大砲製作所を設け、さらに滝野川村(現 北区音無橋上流)に反射炉の建設を開始しましたが、これは明治維新により、未完に終わりました。
新政府は関口の施設を受け継ぎますが、明治4年に小石川水戸藩邸を陸軍用地として、兵器製造を行いました。
現在の東京ドーム周辺一帯で、後に、東京砲兵工廠と呼ばれました。
この施設が明治38年から大正12年にかけて、この北区中央公園周辺に移転してきました。
王子周辺では明治5年に赤羽の袋町に火薬庫が設置されました。
その後、砲兵工廠の後身の東京陸軍第一造兵廠十条工場(現 北区立中央公園)、東京陸軍第二造兵廠王子工場(現 北区立中央図書館周辺)などが移転してきて、赤羽の軍施設と合わせ、「軍都王子」と呼ばれました。
この工廠では小銃弾や機関銃弾が製造されており、その他、砲弾用の信管や、後には照準機や双眼鏡用のレンズなども製造されました。
これらのほとんどが終戦まで残り、この地域は軍都の面影を残してきました。
1.北区中央公園文化センター
どこかでみたことがあるような建物ですが、市ヶ谷防衛庁にある旧士官学校庁舎に似ています。
アメリカ軍接収時は東京兵器補給廠の一部として、使用されました。
1.NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」を見てきました!
毎週、日曜日に放映中の「西郷どん」。今、一番好きなドラマです。
日曜日の夜は必ず見ていますし、見られない時は録画しています。
巷の噂ではストーリーが「ちょっと盛りすぎ」とか、ご意見もあるようですが、私はあくまでもドラマとして見ていますので、楽しく拝見しています。
さて、その特別展があると聞き、早速行ってきました!
先日、南千住あたりを歩いたので、今週はお隣の「北千住」をぶらっと散歩
こちらには私の大好きな「坂本龍馬」に関係する場所があります。
龍馬が初めての江戸剣術修行に来たとき、お世話になった「桶町千葉定吉道場」。
そこの娘「佐那」との運命の出会い。
しかし、龍馬はおりょうと結婚し、非業の最期を遂げてしまいます。
龍馬の死後、佐那は学習院女子部の舎監となり、その後、ここ千住の町で千葉灸治院を開業し、生計を支えながら暮らし、明治29(1896)年10月15日59歳で亡くなりました。
龍馬は姉乙女にあてた手紙の中で、佐那のことを幼なじみの平井加尾より少しよいと伝えています。
残念なことに、いまだにこの佐那の写真は世の中に出ていません。
龍馬を取り巻く人の中でミステリアスな一人と言えるかもしれません。
出来ることなら、写真が見つかって、その顔を一度見てみたいと思います。
1.行人坂
江戸時代、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始め、次第に多くの行人が集まり、住むようになったので、「行人坂」と呼ばれるようになりました。
その当時、この坂は家族や仲間と一緒に「目黒のお不動さん」へお参りにいく道で、西向けの坂の上には、富士見の名所「富士見茶屋」があり、庶民の楽しみの場でもありました。
しかし、この坂は長さ約150m、高低差30m、そして平均勾配が15.6%もあります。
当時の人々はこの坂を上がるのはきつかったでしょうね。
先週、杉並区にある「彰義隊」関連の史跡を見て、さらにディープなものを見たくなり、南千住~三ノ輪に出没。
上野戦争の激戦地だった証拠とも言える寛永寺黒門が移設されている円通寺を訪問しました。
1.円通寺「黒門」
彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争(1868年5月)はあっけなく、一日で勝敗が決し、彰義隊は壊滅。
戦いの後、上野山には二百体を超える彰義隊戦死者の遺骸が散乱していました。
その状況に心を痛めていた円通寺 仏磨和尚が、寛永寺御用商人 三河屋幸三郎と共に、官許を得て、遺骸を火葬し、円通寺に埋葬しました。
これが縁となって、明治40(1907)年、黒門が円通寺に移されました。
その後、昭和60(1985)年に修復工事が行われています。
この黒門には無数の弾痕が残っており、かなりの迫力で、その時の激戦の様子を今に伝えています。
≪目黒をぶらっと散歩(3)≫
1.目黒競馬場跡(正式には東京競馬倶楽部競馬場)
明治40年から昭和8年まで(一時中断あり)、現在の下目黒に競馬場がありました。
当時の競馬は上流階級の遊びで、特に一等館(上流階級の客が利用した見物席)は、羽織・袴、またはシルクハットをかぶり、正装した人しか入場できませんでした。
その服装を借りるため、目黒駅付近に借り着屋もあったほど。
競馬が終わると、足を冷やすため、目黒川に競走馬が来たらしいです。
今は、おしゃれな大人が闊歩する街「目黒」。
江戸時代は庶民の行楽地、明治~昭和の時代は競馬場で、大人の行楽地だったようです。
5/13(日)の「ぶらっと散歩(目黒)」ではそれらの痕跡を辿ってあるこうと思っています!
≪江戸吉原 おいらん道中≫
4月14日、浅草観音うら一葉桜まつりに行ってきました!
江戸時代の吉原で行われていた「おいらん道中」が再現されていました。
『吉原遊郭』
吉原遊郭は元和3(1617)年、幕府公認で現在の人形町あたりに設置されました。
その後、江戸の街づくりの発展により、武家屋敷が近くまで迫ってきて、風紀上好ましくないので、明暦3(1657)年の明暦の大火を機に現在地に移転されました。
その後、何度か火事・地震などの災害に遭いながらも、300年間、続いてきた日本最大の遊郭です。
寒暖の差が激しく、皆様、体調はいかがでしょうか。
都内では桜も散ってしまい、いよいよ暖かい春がやってきます。
散歩にはぴったりの季節ですね。
さて、5月13日(日)開催の第14回のぶらっと散歩は「目黒」。
このあたり、江戸時代は田畑や林が拡がる郊外地で、将軍の鷹狩場がありました。
また、大名の下屋敷や寺社が並び、近くを流れている目黒川の先には、庶民に大人気の目黒不動尊があり、日帰りで行ける一大行楽地でした。
こちらには、あの西郷隆盛が主君 島津斉彬公の病平癒のため、祈願していた「独鈷の滝」などもあり、見どころ満載です。
江戸時代、庶民が楽しんだ道のりをタイムスリップした気分で、目黒をぶらっと散歩してみませんか。
お待ちかねのランチは「目黒のさんま」ではなくて(笑)、ミシュラン ビブグルマンを獲得したピザの名店でワイワイ懇親会です。
今回、メニューもいろいろあるため、皆さんがお好きな前菜・ピザ・飲み物を自由に選んでいただく形式にしました。
ピザはトマトソースベースの他、チーズが苦手な方にはチーズ抜きメニューもありますので、きっと美味しくいただけると思います。
暖かい春の1日、目黒探索をご一緒に楽しみませんか。
≪目黒をぶらっと散歩(2)≫
1.行人坂
江戸時代の初め、「行人」と呼ばれる修験僧が坂の途中にお堂を建て、修行に励み、このあたりに多く住んだので「行人坂」と呼ばれるようになりました。
またこの坂を上ったあたりから、富士山がよく見えたので、大勢の参拝客や旅人が富士見茶屋で一服、見事な眺めを楽しんだようです。
今も昔も、坂の頂上で、眺めがいいところでは、お茶を飲んでゆったりできる「カフェ」があったんだなぁ。
1.お茶の水の地形
このあたりは元来、本郷・湯島台と地続きで、「神田山」と呼ばれていました。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園
新橋周辺)を埋め立てました。
しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになります。
そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。
こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
この絵は、昌平橋から湯島聖堂を見たものですが、狭くて切り立った峡谷に、現在でも残る湯島聖堂の築地塀が見えます。
当時の情景が浮かぶようですね。
≪目黒をぶらっと散歩≫
1.目黒不動尊 瀧泉寺
瀧泉寺は、天台宗の寺院で、山号は泰叡山(たいえいざん)です。
不動明王を本尊とし、一般には目黒不動尊の通称で呼ばれており、江戸三大不動・江戸五色不動の一つ 。
「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もあるようです。
元和元(1615)年、本堂が火災で焼失しました。
その後、徳川家光の庇護を受けて、寛永11(1634)年、50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と言われるほどでした。
(きっかけは、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあった。そこで不動の僧に祈らせたところ、無事に戻ってきたという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である)
江戸時代には一般庶民の行楽地としても親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。
また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされます。
≪世田谷線沿線をぶらっと散歩≫
1.下高井戸駅をスタート
まず、出発前に1日券を購入、330円で1日乗り放題。
(かなりお得です)
何やら小旅行に行くような気分で、ワクワクします(笑)。
1.明治大学阿久悠記念館
阿久悠さんは明治大学出身。
こんな立派な記念館の見学が何と無料、明治大学、太っ腹です。
だれもが知っている昭和の歌謡曲。
私もカラオケで持ち歌にしている沢田研二「勝手にしやがれ」。
いい曲ですねぇ、これも阿久悠さんの作詞、この当時の曲は詩がいいです。
こちらには自筆の原稿の他、受賞曲の日本レコード大賞トロフィーなど、なかなかレアなものが見られます。
来る2018年2月18日(日)13時から勝海舟の会で「浅草吉原探訪」を開催します。
13時東武浅草駅に集合して、吉原があった千束4丁目周辺を歩き、三ノ輪にある浄閑寺まで、3時間半の散歩を楽しんで頂きます。
昨年の7月2日に実施しました「ぶらっと東京食べ歩き 浅草・吉原跡ディープ散歩」をリメイクした内容ですが、ランチがない代わりに夕方から懇親会があります。
参加者も約40名とかなり大人数なので、勝海舟好きでなくとも、現在の吉原がどんな感じなのだろうとか興味がある方、いろいろな方との会話も楽しめるので、一人でも安心してご参加ください。
お申し込みは「勝海舟の会ホームページ」からお願いします。
近代教育発祥の地「御茶ノ水」をぶらっと散歩
1.明治大学博物館
80年以上の歴史をもつ「刑事博物館」「商品博物館」「考古学博物館」が統合して、2004年に発足しました。
その中でも、特に異彩を放つのが「刑事博物館」。刑罰具など、他では見られない品々にあっと驚きます。
(1)鉄の処女と恥辱刑
展示品は1932年に当博物館が国内で作らせた複製品。同種の資料がローテンブルクやサンジミニャーノの中世犯罪博物館などにあり、これらを参考に作られたようです。
処刑や拷問の道具と考えられていた時期もありますが、現在では恥辱刑の道具だったのではないかと考えられています。
(不貞を働いた女性を閉じ込め、街中にさらす道具)
それにしても、かなり異様な感じがします。
(2)絞首台
日本で採用されている「絞首刑」は、最初は柱に固定して、後ろからひもで首を絞め、重りをぶら下げて徐々に首を絞めていく…という苦しいものでした。しかし「あまりに人道的でない」ということで、現在の、階段を昇って行って床が抜けるタイプの「確実に死ねる」絞首刑へと変わっていったようです。
(3)石抱拷具(いしだきごうぐ)
石抱責めでは、三角の木材を打ち付けた算盤板に正座させ、両ひざに責め石を置き重ねました。
この責め石の重さは約50kgあり、当時のマニュアルでは、10枚まで載せてよいことになっていました。
想像すると怖いです。やはり、「悪いことはできない」ということを改めて思いますね。
呑兵衛の聖地「立石」をぶらっと散歩
1.呑んべ横丁
入り込んだ瞬間、ここはどこ? 映画のセット?
時空の空間に迷い込んだかもしれないと錯覚するほど。
「昭和レトロ」なんて、生易しいものではない。
雰囲気、建物、こんなところが東京にあったのかと思わせる。
この「呑んべ横丁」は昭和初期、洋服屋が並び「立石アパート」と呼ばれていました。
昭和40年から全て飲み屋に変わったらしいです。
あとで、近くのお店の店主に聞いたところでは、この駅前に再開発計画があって、この「呑んべ横丁」の一部を含む線路沿いの建物が撤去されるらしい。
もちろん、防災上のことなど、いろいろと問題はあるのでしょうが、実に惜しい!
まだ昼間だったので、「呑んべ横丁」の店は開いてなかったが、駅前の「もつ焼き」「立ち食い寿司」にはずらり行列が。
まさに、昼飲みワンダーランド「立石」。この風景が近い将来、なくなってしまうのでしょうか・・・