目黒をぶらっと散歩「さんまは目黒に限る?」

≪目黒をぶらっと散歩≫

 

1.目黒不動尊 瀧泉寺

瀧泉寺は、天台宗の寺院で、山号は泰叡山(たいえいざん)です。

不動明王を本尊とし、一般には目黒不動尊の通称で呼ばれており、江戸三大不動・江戸五色不動の一つ 。

 

「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もあるようです。

 

元和元(1615)年、本堂が火災で焼失しました。

その後、徳川家光の庇護を受けて、寛永11(1634)年、50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と言われるほどでした。

(きっかけは、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあった。そこで不動の僧に祈らせたところ、無事に戻ってきたという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である)

 

江戸時代には一般庶民の行楽地としても親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。

 

また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされます。

 


2.目黒不動尊「独鈷(とっこ)の滝」

 

この滝は当山を開いた慈覚大師円仁が堂塔建設を占って、法具の独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧きだしたので「独鈷の滝」と名付けられました。

この霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。

 

不動明王に御神水をかけ、祈願すると病気が治るそうです。

幕末に西郷隆盛がこの寺に参詣し、主君 島津斉彬の健康快癒を願ったと言われています。

  


3.目黒不動尊「青木昆陽 墓」

 

サツマイモの先生でしられる青木昆陽の墓があります。

昆陽が生前邸内に立てておいたものといわれ、碑の正面に「甘藷かんしょ先生墓」と楷書で書かれています。

 

一角にさつまいも畑がありました。

 


4.目黒不動尊「比翼塚」

 

江戸の初め、鳥取藩士平井権八は殺人を犯して江戸に逃亡。

吉原の遊女小紫と馴染となって金に困り、通行人から金銭を奪い殺人強盗を重ねました。

 

その後、改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧(こむそう)となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界、観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されました。

 

小紫は権八刑死の報を受け、埋葬されている東昌寺の墓前で後追い心中しました。

 

この話は歌舞伎でも演じられていますが、人々は二人の来世での幸せを祈り、この比翼塚を建てました。

 

まさに、命がけの ”恋” だったのです。。。

 


5.大圓寺 

 

目黒駅西口を下りると、かなり急な坂「行人坂」があります。

この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路で、途中に大圓寺があります。

 

「行人坂」の名は、大圓寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことに由来します。

寺伝では、寛永元(1624)年、出羽湯殿山の修験僧 大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりと言われています。

 

明和9(1772)年、寺より火を発し、江戸市中628町に延焼しました。

これは振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められました。

門を入った左手にある五百羅漢の石像は、この大火の犠牲者供養のために当時に作られたと伝えられています。

 

この火事は、大圓寺を破門になった真秀という坊主が放火したことが原因で、火は瞬く間に江戸中に広がりました。

真秀は、当時の火付盗賊改の長官であった長谷川平蔵宣雄により捕らえられ、後に市中引き回しの上火あぶりの刑に処されます。

 

ちなみに、長谷川平蔵宣雄の長男が、鬼平として有名な長谷川平蔵です。

 


6.大圓寺「八百屋お七と吉三(西運)」 

 

天和2(1682)年の火事で、円林寺に避難していた八百屋の娘お七は寺小姓の吉三と恋に落ちました。

やがて離れ離れになったお七は、吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ちます。

 

大事には至らなかったものの、当時、放火は大罪。

お七は江戸中引き回しの上、大井・鈴ヶ森処刑場で火刑に処せられました。

 

その後、吉三は剃髪し、西運と名を改め、お七の菩提を弔うため、諸国を巡礼しました。

 

その後、江戸に戻った西運は明王院(現在の雅叙園)に身を寄せ、念仏行を始め、浅草寺までの道のりを一日も休むことなく、一万日の行を27年5か月で成し遂げました。

その日、お七が枕元に立ち、成仏したことを、告げたのでした。

 

西運は集まった浄財で、行人坂の石畳を直し、目黒川にかかる橋を石の橋に造り替えました(太鼓橋)。(諸説あり)

 


出典 国立国会図書館「名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡(歌川 広重)」 
出典 国立国会図書館「名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡(歌川 広重)」 
現在の太鼓橋
現在の太鼓橋

7.太鼓橋

 

太鼓橋を造った人物には諸説あり、八百屋お七の恋人の吉三が出家した西運上人だったという伝説があります。

修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。

橋の東側にあった大圓寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれています。

 

ほかにも、木喰上人が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説があります。

 


8.五百羅漢寺

 

松雲元慶(しょううんげんけい)が江戸に来て、羅漢像の製作を始め、5代将軍綱吉から土地を下賜されて、元禄8(1695)年、本所五つ目(現在の大島3ー4丁目)に創建された黄檗宗の寺院です。

536体の羅漢像を安置した羅漢堂と三匝堂(さざえ堂)と呼ばれる螺旋状の仏堂があり、江戸名所図会で「河東(隅田川以東)第一の名藍(めいらん)と言われたように江戸近郊の名所として知られていました。

 

寺は度重なる天災地変に遭い、明治20(1887)年に本所緑町(現在の墨田区)へ、そして明治41(1908)年に目黒に移転しました。

 

現在は305体の五百羅漢像が残っています。

 

羅漢堂に入って、この羅漢像を見た瞬間、「えっ」と思いました。

その高さは78~90cmで、結構大きく、また、一つ一つ姿・形・表情が違っており、かなりのインパクトです。

 

製作に、かなりの労力が掛かったであろうことが分かります。

 


9.五百羅漢寺「さくら隊原爆殉難の碑」

 

昭和16(1941)年、内閣情報局によって作られた日本移動演劇連盟は映画や演劇を体制下でコントロールしようとしました。

その連盟に加わっていた劇団「桜隊」は広島に疎開し、中国地方各地への慰問巡演活動を行っていました。

 

そんな中、昭和20(1945)年8月6日、広島市内で「原爆」の被害を受けてしまいました。

8月下旬までに役者の丸山定夫や女優、舞台監督、裏方を含めた9名全員が死亡しました。

 

桜隊の前身である苦楽座を結成した一人 徳川夢声は特に丸山定夫と親しく、その死を悼み、慰霊碑の建立を提案しました。

しかし、募金活動もなかなかうまくいかず、ようやく昭和27年12月8日、夢声とゆかりのあった五百羅漢寺に「移動劇団さくら隊 原爆殉難碑」を建立することができました。

 

講和条約締結直後のことだったので、桜隊は軍国的なイメージがするとの気兼ねから「さくら隊」になったらしいです。

 


10.夜の帳につつまれる目黒川

 

あと3週間もすれば、見事な桜の風景が見られる目黒川。

またその時期に来たいです。

 

目黒川沿いに見られる、ちょっとお城みたいな建物、これは「目黒エンペラー」という老舗ラブホテル。

随分昔から名前だけは聞いたことがありましたが、こんな場所に建っていたんですね。

ちょっと入りづらい場所にあると思うのですが・・・(笑)

 

目黒のさんまの看板を見つけましたが、残念ながら今回は訪問していません。

さんまの季節ではないので、目黒のさんまは食べられませんが、また次回、グルメスポットを探して、潜入したいと思います。

 

そうそう、JR目黒駅は目黒区ではなく、品川区にあります。

だから秋のさんま祭りは2回あるようです。

 

その品川駅は品川区ではなく港区にある、なんか不思議な感じです(笑)。