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【第18回】ぶらっと江戸下町散歩「佃・月島」を11月25日(日)に実施しました!

11月25日(日)、ぶらっと江戸下町散歩「佃・月島」を実施しました!

 

《佃島と月島の歴史》

1582年に起こった本能寺の変、話はここまでさかのぼります。

この直後、徳川家康は岡崎城に戻ろうとしますが、摂津国西成郡佃島で難渋します。

その時、近くに住んでいた佃村の漁師が漁船と保存食の小魚煮を用意して、家康一行が逃げるのに協力しました。

 

この時の恩を忘れなかった家康はその後、世話になった森孫右衛門一族を江戸に呼び寄せます。

彼らは隅田川河口にあった干潟を拝領し、ここを埋め立てて、島を造り、出来た島が故郷にそっくりだということで、旧村の名をとって「佃島」としました。

 

孫右衛門たちは様々な特権を与えられました。

”森”という姓、白魚の漁業権、税金の免除、武家屋敷への出入り許可など、そして彼らは徳川家に魚を運ぶとき、大名行列を横切ることが出来たのです。

本来、大名行列を横切ったら、あの「生麦事件」のようになるところですから、いかに特別な関係だったかが分かります。

ゆっくり、大名行列が通り過ぎるのを待っていたら、魚が腐りますよね、だからかな(笑)

 

ビックリしたのは白魚献上の習慣は何と現在でも続けられているとか。

漁民たちも徳川様の御恩を忘れなかったのですね。

 

一方の月島は明治になって、隅田川の川底に堆積した土砂が船の運航に支障をきたすようになったので、その土砂を処分して埋め立てて出来たのが月島です。

 

 


1.佃天台地蔵尊

 

江戸時代中期、地蔵菩薩を厚く信仰した上野寛永寺崇徳院宮法親王(すうとくいんのみやほうしんのう)が自ら地蔵尊像を描いたと伝えられています。

ここにあるのはその地蔵尊像を書き写したものの一つではないかと言われています。

 

ここは地元の方が孫、子供、父母、お年寄りなどの無事を願って、こまに手を合わせている場所で、その優しい気持ちにキューンとなります。 

 

 


2.佃波除稲荷神社

  

佃の漁師の間では明治頃まで石を持って「力試し」をする風習があったそうです。

それに使われた力石が奉納されています。

「さし石」とはこの力石を持ち上げる動作を「さす」とか「あげる」と言ったことからこの呼称があるようです。

 

 


3.佃小橋

 

隅田川からの入江となる水路にかかる橋です。

水路は隅田川沿いの住吉水門によって水位調整が行われています。

 

江戸の雰囲気を残す朱塗りの佃小橋と船溜まり、そのバックに見えるタワーマンションとのコントラストがたまりません!

ここは銀座からたった2kmの距離だと考えると、余計に東京という街の懐の深さを感じます。

 

これこそ、街発見散歩の神髄ではないかと・・・(笑)

 

  

名所江戸百景 歌川広重「夏の部・佃しま住吉の祭り」
名所江戸百景 歌川広重「夏の部・佃しま住吉の祭り」

4.佃住吉講

 

江戸幕府に許可された由緒正しいお祭りである住吉神社の例大祭で使われる大幟(おおのぼり)の柱とそれを支える抱木(だき)が川底に埋められています。

空気に触れて木が腐らないようにしているそうです。 

  

大幟は約18mもあり、江戸時代、それは江戸城から見えるほどだったようです。

 


5.佃島にある井戸

 

佃島では、井戸のあるお宅が結構あります。

これは漁民たちが獲ってきた魚を洗うためのものだったようです。

これもレトロな風景の一つですね。

 

 


6.佃まちかど展示館「獅子頭」

 

展示されているのは千貫神輿。

文政年間の作と言われる二対の獅子頭。

 

3年に一度の例大祭では、若い衆はこの獅子頭の鼻についている綱の取り合いを激しくやります。

なぜなら、この獅子頭の鼻をつかむと「次回の祭りまで女に不自由しない」という言い伝えがあるからだそうです。

そりゃあ、本気でやりますよね(笑)

 

 


7.佃煮「天安」

 

元々の佃島の漁師は、獲った子魚類を塩辛く煮込んだ保存食を作っていました。

当時は醤油がなかったため、塩辛や薄い塩水で煮て、乾燥させた「いりこ」のようなものだったと思われます。

 

永禄4(1561)年に下総の野田で企業的な醤油が生まれ、これが当地に伝わってきて醤油煮に代わり、煮込んだ保存食が佃島で作られたことから「佃煮」と名付けられたようです。

 

今回のクイズの賞品はこちらの佃煮にしました!

 

 


8.住吉神社

 

前述の通り、家康の命により摂津国佃の漁師がこの地に移ってくる際、大阪の住吉の社(田蓑神社)の神職平岡大夫の弟、権大夫好次も分神霊を奉って江戸に下りました。

そして、干潟を埋め立て、住吉神社の社地をここに定めて、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を祀ったのが、住吉神社の起こりと伝わります。

 

境内の藤棚の脇に高さ2mほどの柱が立っています。

これは例大祭で使用される大幟の土台だそうです。

  

お客様の一人がおみくじ大好きで、今回もチャレンジされました。

前回の向島では凶でしたが、今回は「大吉」。よかったー(笑)

 

 


9.石川島燈台跡

 

佃島の北側は石川島。江戸時代から埋め立てが進み、現在では狭い掘割を隔てて、佃島と連結しています。

 

その名前は寛永3(1626)年、幕府の石川八左衛門重次がここを拝領し、屋敷を作ったことに由来します。

 

その後、この島は江戸前の潮風に吹かれる納涼の地として江戸っ子に愛されました。

それを目当てに妓楼や料亭も多く並んでいたようです。

 

さらに天明7(1787)年、大火で全焼した新吉原がその再建までの間、この地で仮営業したので、さらに栄えたようです。

 

また、寛政2(1790)年、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設が、火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(鬼平)の提案により、この地に設置されました。

平蔵は運営資金を補うため、銭相場に投資した利益や、大名の屋敷跡を有力商人に資材置き場として賃借した借地代なども充当するなど苦労しました。

しかし、これが老中松平定信の気に障ったのか、平蔵は2年で石川島人足寄場の奉行を解任されてしまいました。

 

当時の足寄場は一万六千坪もあったとされ、鍛冶、紙漉き、駕籠、彫り物、屋根葺きなど、様々な技術の習得小屋が設置されました。

入所は約3年、赦免の際は仕事道具やそれまでの積立金が支給されました。

 

この燈台は慶応2(1866)年、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田川河口を通る船舶のため、「油しぼり」の利益を使って、人足の手で常夜燈を築きました。

「油をしぼる」という言葉はここに由来します。

 

 


10.佃島砲台跡

 

ペリー来航後、幕府は江戸防衛のため、砲台を築きました。

そして品川台場建設から約10年後の元治元(1864)年、幕府によってここにも砲台が作られました。

しかし、1887年以降の月島埋め立てで消滅してしまいました。

 

  


11.ランチ懇親会「むかい」

 

街発見くらぶの散歩の最後はランチ懇親会。 

今回は、ちょっと変わったものが食べられるお店、鉄板焼きともんじゃの「むかい」さんです。

 

まずは、プチ贅沢な鉄板焼きからスタート。

①ふぐの白子焼き(外はじっくり焼きますが、中はトロっ)

②ふぐの唐揚げ(文句なしに美味い!、衣のカリカリとジューシーな身のバランスが最高!)

③イカ沖漬け(日本酒のつまみにピッタリ、酒飲みにはたまりません!)

 

そして、メインのもんじゃは

④海鮮スペシャル(イカ、エビ、タコ、ホタテなどが入った豪華版で、最後はチーズとしそをのせます) 

 

お客様のお腹はまだまだ入るということなので

⑤豚五目焼きそば(大盛り)

 

そして、最後のデザートは

⑥あんこ巻(お好み焼きの生地を使った皮で、あんこを包んだもの)

これってデザート?

月島に来て、初めて食べました。。

 

飲み物は日本酒メインで楽しみました。

ちょっと変わったところでは「冷ふぐ酒」。

ふぐひれ酒はやはり熱燗でしょうか(笑)

 

結構食べて、昼間っから飲みました、もうお腹いっぱいです・・・