江戸と東京のコントラストがまぶしい!「佃・月島」

1.佃島と月島の歴史

 

この情景「船溜まりと高層マンション群のコントラスト」が堪りません。

銀座から、たった2kmの場所で、この雰囲気。

これも東京という街の魅力ですね。

 

さて、佃島は元々あった島を埋め立てにより拡張した島でした。(現在の佃一丁目辺り)

佃島は江戸時代、漁村で、住民は徳川家康の命で、大阪の佃村から移住してきた漁民です。

この地が、故郷の佃村にそっくりだということで、旧村の名をとって、「佃島」としました。

 

本能寺の変の時、家康が必死の思いで、領国に戻ろうとしたが、摂津国西成郡佃島で難渋しました。

この時、近くの佃村の漁民たちが漁船と、保存食の小魚煮を用意したと伝わります。(諸説あり)

家康がその小魚煮を気に入って集団移転させ、「佃煮」を作らせたという伝説もあります。

 

家康に呼ばれた森孫右衛門一族らは、数隻の漁船で行う、大規模な底網漁の一種・地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っていました。

そのため、従来の江戸の漁師とは比較にならない漁獲高を上げ、これによって幕府献上の余りを市中に売買することを可能にしました。

その後、これが日本橋に魚河岸が出来る原点となりました。

 

一方、月島は明治に出来た人口の島でした。

隅田川の川底に堆積した土砂により船の運航に支障がでたため、浚渫(しゅんせつ)工事が行われました。

その際に出た土砂を処分するために埋め立てられて出来たのが月島です。

明治25(1892)年に東京湾埋め立て1号地(月島)として佃島から先の砂州が埋め立てられ、続いて明治27(1894)年に2号地(勝どき)、明治29(1896)年に新佃島(佃2、3丁目)と続きました。

 

 


2.佃小橋

 

隅田川からの入江となる水路に架かる赤い橋です。

水路は隅田川沿いの住吉水門によって水位調整が行われています。

住吉神社にも通じる水路で、橋を渡って左に曲がると神社があります。

橋の下には、祭りで使用する大幟の柱、抱が埋められていているそうです。

 


3.佃島渡船場跡

 

正保2(1645)年、佃島の人々が江戸市中へ行くための交通手段として、佃の渡しが始まりました。
当初は、日常生活に必要な交通手段として始まった手こぎ渡船でしたが、島内にある住吉神社への参詣や夏に行われる祭の見物、さらには、同社境内の藤の花見などで来島する人々に利用され、江戸時代を通じてにぎわいました。 

 

佃島渡船は隅田川に残る最後の渡船として、昭和39(1964)年に佃大橋が架橋されるまで存続しました。

江戸から昭和にいたる長い歴史を伝える貴重な史跡です。

 

 


4.住吉神社

 

天正18(1590)年、徳川家康が関東下降の際、家康の命により摂津国佃の漁夫と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下りました。

寛永年間に幕府より鉄砲洲向かいの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保2(1645)年に竣工し、住吉明神の社地を定めて、正保3(1646)年6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。

これが佃住吉神社の起こりです」と縁起にあります。

 

社前が迴船の港であったことから、迴船問屋筋の信仰が厚かったようです。

 

 


5.石川島燈台跡

 

慶応2(1866)年、石川島人足寄場奉行清水純崎が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの利益を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので、六角二層の堂々たる灯台でした。

 

燈台の後ろに見える高層マンションとのコントラストに魅かれます。

 

* 人足寄場とは、江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者(ぐはんしゃ=罪を犯す恐れのある者)の自立支援施設。

    寛政2(1790)年に火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(のぶため)が老中松平定信に提案し、設置されたもの。

 

 


6.於咲 佃浪除稲荷神社

 

佃堀のそばで、鳥居を共有して鎮座する二社の稲荷神社。両社とも創建時期・由緒は不明。

 

浪除稲荷神社については、扁額に「正一位波除稲荷大明神」とあることから、伏見稲荷大社からの勧請かもしれません。
ただし、築地にも同名の神社があり、そこからの勧請である可能性もあるそうです。

 

また、於咲稲荷神社の方には、「於咲稲荷大明神」の扁額がかかっています。

 

鳥居脇に置かれた3個の力石は、区有形民俗文化財に指定されています。

楕円形の安山岩で、「さし石」と刻まれています。
「さし石」とは、この力石を持ち上げる動作を「さす」とか「あげる」といったことによります。

佃島の若い漁業従事者らが、大正から昭和初期頃まで力競べを行っていたそうです。

 

 


7.佃煮

  
佃島の漁民たちは、この地で白魚などの漁をしながら、江戸城内に供給することで漁業権を与えられました。

しかし、離れ小島であるため、時化(シケ)になると食料不足となったり、また猟期には腐らない副食物が必要なところから、小魚類を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えました。

 

その後、千葉より醤油が伝わり、塩煮から醤油煮に替わり、佃島で作られたので「佃煮」と命名され、江戸市中に売り出されました。

 

さて、今回、購入した佃煮は「しらす」。

甘辛い味がご飯の上にのせて食べると最高!

日本人に生まれてよかったと思う瞬間です(笑)