幕末維新歴史散歩「桜田門外の変から」

《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》

 

スタートは国会議事堂近くにある「桜田門」。

幕末の定義にはペリー来航など、いろいろあるかと思いますが、ここでは『桜田門外の変』が起こった場所から。

 

1.桜田門

この地が古代に”桜田郷”と呼ばれていたことが名前の由来だそう。

また、江戸の主要道が通過する場所で、小田原街道の始点にあたるので「小田原口」と呼ばれていました。

門周辺の石垣は慶長19(1614)年、真壁藩(現茨城県)藩主 浅野長重により築かれ、寛永年間(1624~1644)年に門が建てられました。

 

大正12(1923)年の関東大震災で一部破損しましたが、その後再建され、現在に至っています。

 

現在、桜田門の正面[豊後杵築(ぶんごきつき)藩 松平家屋敷跡]には警視庁があります。

 

 


広重「外櫻田弁慶櫻の井」
広重「外櫻田弁慶櫻の井」

2.江戸の名水「櫻の井」

 

櫻の井は名水井戸として彦根藩 井伊家上屋敷の表門外西側にありましたが、ここは元は加藤清正邸で、清正が掘ったと伝えられています。

縦1.8m、横3mの石垣で組んだ大井戸で、3本の釣瓶がついており、幕末当時、江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供したようです。

 

安政7(1860)年3月3日(旧暦で節句ひな祭りの日)、大老井伊直弼が井伊家を出て、この井戸の脇を通って登城途中、暗殺されるという大事件が起こりました。

 

 


月岡芳年「安政五戌午年三月三日於テ桜田門外二水府脱士之輩盟シテ雪中二大老彦根侯ヲ襲撃之図」
月岡芳年「安政五戌午年三月三日於テ桜田門外二水府脱士之輩盟シテ雪中二大老彦根侯ヲ襲撃之図」

3.桜田門外の変

 

桜田門外の変が、なぜ起きたのかについて考えると、安政の大獄のことに少し触れておく必要があります。

 

(安政の大獄)

13代将軍となった家定は病弱だったため、すぐに跡継ぎ、将軍継嗣問題が起こります。

そこで水戸藩徳川斉昭の七男 一橋家当主一橋慶喜を推す「一橋派」と紀州藩主 徳川慶福(よしとみ)を推す「南紀派」が激しく対立します。(言い換えれば、幕府体制を改革するのか、現体制を維持するのかの争いでした)

 

一橋派の老中阿部正弘の急死から南紀派が巻き返し、その後の老中堀田正睦(まさよし)が福井藩 松平慶永を大老にしようとしましたが、将軍家定に却下され、井伊直弼が大老となります。

 

井伊は勅許を得ないで、結果的に日米修好通商条約に調印します。(実際に調印したのは下田奉行 井上清直と目付 岩瀬忠震)

(9月のぶらっと散歩「向島」でこの岩瀬の碑がある白鬚神社に行きました)

 

条約調印に激怒した一橋慶喜、徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、松平慶永らは井伊に抗議しましたが、逆に謹慎、隠居などの処分を受けてしまいます。

 

条約調印を聞いた孝明天皇は怒り、水戸藩に勅諚を送ります(戊午の密勅)

①勅許なく条約に調印したことへの呵責と、詳細な説明

②御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体を推進し、幕府は攘夷推進の幕政改革をせよとの命令

③この内容を水戸藩から諸藩に廻せという副書

 

朝廷が幕府を通さず、直接大名に命令したことを知った井伊は激怒して、これらに関係したものを次々と捕え、安政の大獄が始まりました。

幕府はその勅諚は ”水戸藩の陰謀” というストーリーを作り、水戸藩家老を切腹させるなど、多数を処罰します。

さらに、勅諚を返納するよう命令を下し、出来なければ水戸家の取りつぶしまで示唆します。

 

この対応を巡って水戸藩は真っ二つの状態になり、過激派の反発はだんだんと大きくなり、桜田門外の変に通じることになります。

 

 

(桜田門外の変)

当日(3月3日)は江戸にいる大名は登城して将軍に拝謁する日で、井伊直弼は必ず登城するということが襲撃者に分かっていました。

 

2月半ばから実行グループのメンバーは品川などの宿屋に分散して泊まっていて、前日には品川の相模楼に集まり、最後の宴を催したと伝わります。

 

[相模楼]

(文久2(1862)年12月12日、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など長州藩士が、新たに建設中だったイギリス公使館を焼き払う事件を起こしますが、彼らが事件前に密議をしていた場所としても有名です)

 

 


4.法務省旧本館(米沢藩上杉家江戸藩邸跡)

 

井伊襲撃のメンバーは水戸藩から17人、薩摩藩から1人でしたが、その現場リーダーだった関鉄之助ともう一人は襲撃に加わらず、桜田門近くにあった上杉家屋敷脇に隠れていました。(現 法務省旧本館)

 

こうしてみると、井伊家と桜田門は約400mほどしか離れていません。

つまり、行列がどこを通るかなど考える必要はありませんでした。

 

当時、大名の登城風景は江戸城観光の名物だったので、参勤交代で地方から江戸に出てきた武士は「武鑑」という武家パンフレットを持って、大名の登城風景を見ている人も多かったようで、怪しまれることもなかったのです。

 

さらに、この日は雪だったため、井伊家の者は雨合羽を着て、刀は鞘の上から袋をかけていたので咄嗟の対応が出来なかったことが、この事件の結果を左右しました。

 

薩摩藩唯一の襲撃者 有村次左衛門は井伊の首級を取り、刀の切先に首級を突き立てて、勝鬨の声をあげ引き揚げました。

そして、米沢藩邸前の角まで来たところで、追ってきた彦根藩士 小河原秀之丞より背後から斬りつけらました。

この一撃で有村も重傷を負い、若年寄 遠藤胤統(たねのり) (近江三上藩)邸の門前で自決しました。

そのため、井伊の首級は遠藤胤統邸に置かれていました。

 

その後、井伊家では取り戻した首と胴を縫い合わせて井伊は負傷療養中として、なんとか、お家断絶は免れたのです。

跡取りが決まった後、死亡が発表されました。

 

豪徳寺にある井伊直弼の墓には3月28日没と書かれています。

 

供の者で無傷で帰ってきた者は、後に斬首されました。。。 

 

 


5.日比谷公園内「日比谷見附跡」

 

桜田門外の変とはちょっと離れますが、日比谷公園を歩いている途中で日比谷見附跡を発見。 

 

見附は主に城の外郭に設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外堀(外濠)および内堀(内濠)に沿って、36の見附があったそうです。

その見附の中で、この日比谷御門だけが橋のない枡形門で、大名小路への出入り口でしたが、明治初期に撤去され、現在は石垣と塚跡が残っているだけです。

城の外側から順に高麗門、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていました。 

 

 

「仙台藩祖 伊達政宗終焉の地」

 

日比谷見附門跡から少し歩いたところで見つけた「伊達政宗終焉の地」の看板。 

仙台藩初代藩主として仙台の発展の礎を築いた伊達政宗。
政宗が亡くなったのは寛永13(1636)年5月24日。

享年70、死因は癌性の腹膜炎もしくは食道癌といわれています。

 

徳川家康だけでなく、二代将軍秀忠、三代将軍家光もこの地を訪れたことがあるとか。 

政宗終焉の地は、仙台ではなく、仙台藩外桜田上屋敷(現 日比谷公園)だったのですね。

 

 


6.虎の門「江戸城外堀展示室」 

 

こちらも事件からは少し外れますが、銀座線の「虎ノ門」駅の構内に、『江戸城外濠跡地下室展示室』があります。
虎ノ門近くの外濠が修復され、間近に石垣が見ることができます。

旧江戸城写真帖には、高麗門が右手にあり、門前の橋は土橋のようで、間が切られて水が流れ落ちています。

奥の屋敷は、延岡藩内藤家の屋敷だそうです。

 

  


7.江藤新平君遭難遺址碑

 

佐賀(鍋島)藩を代表した江藤新平の遭難記念碑。

明治2年12月、藩政改革の恨みから、同じ佐賀藩の下級武士達に襲われました。

 

江藤は、後に明治政府初代司法卿、参議を務め、政府の中枢を担いましたが「征韓論」で下野し、士族達に担がれて明治7(1874)年「佐賀戦争」を起こし斬首されました。享年41歳。

 

「佐賀戦争」に際しては、大久保利通が直接出向いて処分を決めたと言われ、「佐賀戦争」から、その後起こる最後の戦「西南戦争」に 至る時期が、明治国家の確立にとって、一番大変だったと思われます。


明治政府にとっての ”賊” 江藤の名誉が回復するのは明治22年のことですが、晴れて遭難碑が建てられたのは、大正5(1916)年です。

 

 


8.愛宕神社「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」

 

襲撃の当日、朝から雪が降っている中、バラバラに江戸に向かい、愛宕山神社に集結しました。

井伊直弼の暗殺をめざす水戸浪士たちは、徳川家康の創建であるこの神社に本懐成就の祈願をしました。

 

襲撃者たちにお願いされた神様も戸惑ったのではないでしょうか・・・

 

(桜田門外の変 襲撃者のその後)

襲撃者のうち、二人が明治まで生き延びています。

そのうちの一人、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)はその後、元治元(1864)年の天狗党の乱に変名で天狗党へ参加、関宿藩に預けられましたが、ここも無事脱出。

明治維新後、旧水戸藩士身分に復帰、茨城県庁や警視庁等へ勤務、退職後の明治36(1903)年、自宅で没しています。

 

桜田門外の変の襲撃者の一人が、何と警視庁にお勤めされていましたか・・・

これも何かの縁なのでしょうか。。。