ぶらっと紀尾井町

1.紀尾井町の名前の由来

 

江戸時代、このあたりには紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(現 東京ガーデンテラス紀尾井町周辺)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(現 上智大学一帯)、近江彦根藩井伊家中屋敷(現 ホテルニューオータニ一帯)がありました。

 

紀尾井町の名前は、(紀)伊徳川・(尾)張徳川、彦根(井)伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。

 

[紀州徳川家]

徳川家康の十男、徳川頼宣に始まる家で、8代将軍 徳川吉宗や14代将軍 徳川家茂を輩出した徳川御三家の一つ、唯一将軍を輩出した徳川御三家です。

 

[尾張徳川家]

徳川御三家の一つで、家康の九男、徳川義直に始まる家です。

かつては徳川御三家の中でも一番の石高を誇り、御三家の筆頭でしたが、将軍継嗣問題で紀州の吉宗に敗れたこともあって、その後は勢いを見せなくなります。

 

[彦根藩井伊家]

江戸幕府の譜代大名の筆頭として、徳川四天王の一つと言われていました。

井伊家で有名なのは、幕末で大老を務めた井伊直弼。

直弼が行った安政の大獄によって、橋本佐内、吉田松陰、水戸藩士など多くの人が粛清されましたが、それがもとで、桜田門外で暗殺されました(桜田門外の変)。

 

 


2.三宅坂小公園「渡辺崋山誕生地」

 

三宅坂周辺は田原藩主三宅家上屋敷があった場所。

 

渡辺崋山はこの屋敷の長屋で生まれ、蘭学を学び、絵画も達者でした。

崋山が描いた「鷹見泉石像」は国宝。

 

家柄にめぐまれていたので、英遇ぶりを買われて年寄格に昇進、ところが蛮社の獄に連座して、運命は暗転。

「慎機論」の草稿を発見され謹慎に追い込まれ、親や藩主に迷惑をかけたことを悔い、「不忠不孝 渡辺登」(登は崋山の本名)という遺書を残し国許の田原(現愛知県田原市)の幽居の納屋で切腹しました。

 

さて、写真の銅像ですが、台座の雰囲気に合わないなぜか裸の女性の群像。

これは元々、元帥陸軍大将寺内正毅の騎馬像でしたが、戦時中に金属供出で姿を消し、撤去された同じ台座に昭和25(1950)年に建立された「平和の群像」という裸像でした。

 

 


3.平河天満宮

 

文明10(1478)年に太田道灌が江戸城の梅林坂上に勧請したのが始まり。

 

家康の時代になると、築城の支障になったからか、平川門外に遷座し、慶長12(1607)年、二代将軍秀忠の代に貝塚と呼ばれていた現在地に移り、この時、平河町と名付けられました。

 

この鳥居は弘化元(1844)年、麹町周辺の人々により建築・奉納されたもの。

 

左右の柱木に見られる丸く銅板が欠損した部分は太平洋戦争当時、空襲の機銃掃射によるものです。

  

 


4.赤坂プリンス クラシックハウス

  「旧北白川宮邸洋館」「李王家東京邸」

 

この場所の変遷を辿ってみると、下記のようなドラマチックな変化が起こっていました。

 

 江戸時代「紀伊徳川家江戸上屋敷」→明治17(1884)年「北白川宮邸」(ジョサイアコンドル設計)→昭和5(1930)年「李王邸」→昭和30(1955)年「赤坂プリンス旧館」→平成28(2016)年「赤坂プリンス クラシックハウス」 

 

この地は、元々、紀伊徳川家江戸上屋敷があり、明治になってから北白川宮能久親王に下賜され、明治17年に洋館を中心とする大規模な邸宅が建設されました。

この洋館はジョサイア・コンドルの設計で、煉瓦造2階建(一部3階)の壮麗なゴシック建築でした。

 

その後、北白川宮邸洋館は明治27(1894)年の東京地震によって被害を受け、翌年には能久親王が逝去したことから、明治45(1912)年、北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には昭和5年に朝鮮王朝李王家東京邸が建設されました。

 

李王は14世紀末より長く続く朝鮮王族の家系で、明治43(1910)年の朝鮮併合によって日本の準皇族となり、最後の皇帝・純宗の皇太子李垠殿下とその妻・梨本宮方子妃のご家族が戦後、ここで暫く生活していました。

 

その後、西武グループ創始者の堤康次郎が購入し、赤坂プリンスホテルの別館となり、同ホテル営業終了後は結婚式場「赤坂プリンス クラシックハウス」として利用されています。

 

 


5.赤坂御門跡

 

赤坂御門は寛永13(1636)年に筑前福岡藩黒田忠之により、枡形石垣が造られ、同16(1639)年には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。

この石垣は高麗門の脇の石垣だったようです。

 

江戸時代、この門は現在の神奈川県大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。

 

平成3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。 

 

 


6.弁慶橋

 

江戸城普請に携わった大工の棟梁 弁慶小左衛門が架けた橋、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝わります。

 

かつては神田松枝町と岩本町との間にある藍染川下流に架かっていましたが、明治18(1885)年に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり、撤去されます。

 

しかし、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、明治22(1889)年に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀へ、元の弁慶橋の廃材を利用して架橋されました。

 

 


7.清水谷公園「贈右大臣大久保利通公哀悼碑」

 

明治11(1878)年に暗殺された大久保利通をしのんで、明治21(1888)年5月に建立された碑です。

大久保利通は、薩摩藩出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。

 

親友・盟友でもある西郷隆盛が西南戦争で亡くなった翌年、石川県士族島田一郎ら6名が大久保の政策に反発し、明治11年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い暗殺しました。

この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。

大久保は暗殺された時に、生前に西郷から送られた手紙を持っていたという話があります。

 

湧水があったことから清水谷と呼ばれたこのあたりは明治23(1890)年に東京市によって整備され清水谷公園となりました。

 

明治23年の公園開園より2年先んじて哀悼碑が建立されたことは、この公園が哀悼碑のために開園したことを物語っています。

 

 

「玉川上水の石枡」

発見された江戸水道の石枡と木管は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。

 

 


8.上智大学グラウンド「真田濠」

 

真田濠は寛永13(1636)年に完成され、江戸城外濠延長14kmの中で、最も標高の高いところに位置します。

幅90m、深さ14m、長さ1kmの開削は江戸城防御の最大の要でした。

 

濠の開削は主に東日本の大名が務め、伊達家や上杉家も参加したといわれていますが、「真田」の名が残されています。

なぜ「真田濠」という名前がつけられたのか?大いなる謎だそうです。

 

第二次世界大戦の東京大空襲で大量の瓦礫が発生し、その処置に困り果てた東京都は上智大学と交渉、上智大学は使用権を得る代わりとして、埋め立て費用を支払うことを快諾しました。

跡地はグラウンドとして整備され、以降、上智大学が都から借り受ける形で大学のグラウンドとして使用しています。