【第12回】ぶらっと 築地「文明開化・昭和レトロの街(12/16)」をやりました!

≪築地の由来~江戸時代≫

1.築地本願寺

 

元和3(1617)年、浅草横山町に建立され、「浅草御堂」と呼ばれました。

しかし、明暦3(1657)年の明暦の大火で本堂を焼失。

 

その後、幕府による区画整理のため、旧地への再建が許されず、代替地として「八丁堀沖の海上」が下付されました。

そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝7(1679)年に再建され、「築地御坊」と呼ばれました。(この埋め立て工事が地名「築地」の由来)

佃島の門徒である漁師たちは「生きるためには殺生を禁じない」浄土真宗を崇拝したようです。

 

大正12(1923)年9月1日の関東大震災で起こった火事により、再び焼失。

現在の本堂は昭和9(1934)年、古代インド様式をモチーフに、伊東忠太の設計で竣工されました。

象、牛、クジャク、、羽の生えたライオンなど、不思議な動物たちが飾られています。

 

合同墓

遠方に親族の墓があって、”これから先、墓の面倒を誰が見るのか” といった心配がある方のために「合同墓」が設けられています。

ここは宗教は問わないので誰でも申し込むことが出来ます。

最近、このような問題が多くなっており、私自身も考えていかなくてはならない状況にあります。

これも解決方法の一つかと思います。 

 

 


2.浅野内匠頭邸跡

 

浅野内匠頭長矩は寛文7(1667)年、この屋敷で生まれました。(8900坪あった)

34年後、内匠頭は江戸城中松之廊下で吉良上野介を斬りつけ、即日切腹。

浅野家は御家断絶となり、この上屋敷も没収されました。

 

翌年暮、赤穂四十七士は本所の吉良邸に討ち入った後、ここを通って高輪の泉岳寺まで引き揚げました。

 

時を経て、明治25(1892)年には芥川龍之介がこの地で生まれています。

生後すぐに母が亡くなったので、龍之介は母の実家・芥川家に引き取られました。

その芥川家が本所吉良邸の近所にあったのは奇縁というのでしょうか?

 

 


≪幕末から明治≫

3.外国人居留地跡

 

維新を迎え、明治政府は、江戸に居留地を作ることを決め、明治元(1869)年、築地鉄砲洲(現在の明石町付近)に外国人居留地を設けました。

 

ホテル、ミッションスクール、病院、税関、活版印刷、指紋研究、測量・建築術、語学、宗教など、築地は広く外国の異文化を取り入れる窓口になり、これらが東京市民にハイカラな文明開化の気分を醸成しました。

 

また、現在の新富町あたりには横浜から外国人の移転を当てにして、新島原遊郭が建設されましたが、集客できず、3年後に廃止となりました。

江戸は元々武家屋敷が多く、大名が帰藩した後、経済的には疲弊しており、横浜にいた商人たちが思ったほど移転してこなかったのです。

 

 


4.カトリック築地教会

 

明治7(1874)年、外国人居留地内に」作られた教会です。

同11年に建てられた聖堂は関東大震災で倒壊したため、昭和2(1927)年にギリシア神殿パルテノン形式の聖堂が新たに建てられました。

 

今見ても、荘厳な雰囲気を醸し出しており、当時の居留地の情景を思い浮かべることが出来ます。

 

 


5.ヘンリー・フォールズ住居の跡

 

フォールズはスコットランドから宣教師として来日し、キリスト教布教の傍ら、築地病院を開いて、診療にあたりました。

 

彼は日本で行われていた「押印」の習慣に興味を持ち、初めて科学的な「指紋」の研究を行いました。

その研究成果を英国の雑誌「ネイチャー」に日本から投稿した論文は、科学的指紋法に関する世界最初の論文と言われ、その中で犯罪者の個人識別の経験を発表しました。

 

 


6.あかつき公園(シーボルトの胸像)

 

 シーボルトはオランダ商館医員として、文政6(1823)年、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開きました。

文政9(1826)年、江戸に行き、蘭学者に指導もしました。

しかし、文政11(1828)年、シーボルト事件が発生し、日本を追放されてしまいます。

 

後に安政6(1859)年、幕府顧問として再来日を果たすも、まもなくミュンヘンに帰国して没しました。

 

シーボルトの娘 イネ

長崎で、円山町遊女だった(遊女の名を借りて通った)お瀧との間にイネが生まれました。

父シーボルトが国外追放になった時、イネはまだ2歳でした。

 

父が再来日して長崎で再会した後は、イネはシーボルト門下の医者から医学を学びました。

明治8(1875)年、医術開業試験制度が始まりましたが、女性であったイネは受験資格がなかったため、長崎で産婆として開業しました。

 

62歳のとき、異母弟にのハインリヒの世話になり、娘タダ(後 高子)一家と一緒に東京で余生を送りました。

 

 

イネの娘 タダ(後 高子)

その美しい容姿から、後に漫画のモデルになったと言われています。

 

しかし、この親子には壮絶な人生があったのです。。。

「タダ」という名前の由来とは???

 

 


東都築地ホテル館之図(歌川国輝)
東都築地ホテル館之図(歌川国輝)

7.軍艦操練所跡

 

江戸幕府が海軍建設のため、安政2(1855)年に長崎海軍伝習所を設置し、続いて江戸築地の講武所内に海軍教育部門を設けることになりました。

そこで、安政4(1857)年、永井尚志以下の長崎海軍伝習所の学生の一部が江戸に移動し、軍艦教授所が開かれ、その後、軍艦操練所と改称しました。

そして安政6(1859)年、長崎海軍伝習所は閉鎖されたので、軍艦操練所は以後の幕府海軍教育の中核施設となりました。

万延年間(1860-1861)には諸藩からも生徒を受け入れるようになりました。

 

さらに軍艦操練所は軍艦所と改称され、慶応2(1866)年には教育だけでなく、幕府海軍の行政機関としての機能も追加され、海軍所となりました。

しかし、慶応3(1867)年の再度の火事で焼失し、最終的に築地から浜御殿へと移転しました。

 

勝海舟やジョン万次郎も教授を務めた時期があります。

 

 

築地ホテル跡

明治元(1869)年、海軍操練所跡に日本最初の外国人宿泊施設(ホテル)が出来ました。

この近代的なホテルの設計は横浜・新橋の停車場を設計した米国人ブリジェンヌ、施工は清水建設の祖 二代目清水喜助が行いました。

 

木造4階建て、瓦屋根に海鼠壁、ベランダ付客室に鎧戸付の窓を設け、海に面した中庭には日本庭園を築くなど、和洋折衷洋式でした。

しかし、明治5(1872)年の大火で焼失し、海軍省の用地に戻りました。

 

近い将来、築地が移転することになった場合、跡地に、このようなクラシカルな築地ホテルが再興できたら、いいだろうなぁ。

 

 


出典:戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり(日野原重明)
出典:戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり(日野原重明)

≪昭和(第二次世界大戦)≫

8.聖路加国際病院・大学

 

いよいよ、最後の昭和に入ります。

戦時中、聖路加国際病院は名前を「大東亜中央病院」と変更させられたり、病院脇に置かれた「神の栄光と人類奉仕のため」と刻まれた定礎石は御影石で覆われたりしました。

 

昭和20(1945)年3月10日の空襲では10万人を超える死者と100万人もの被災者が出て、一夜にして東京は消えてしまうような有様でした。

そんな時、5月17日に「米國より日本への賜物 東京市築地聖路加病院」というビラがまかれました。

 

アメリカ軍は戦争に勝った後、ここをアメリカ軍のための病院として使おうと考えていたのです。

だから、この聖路加病院の周辺 築地は空襲に見舞われなかったのです(諸説あり)。

 

しかし、当時このビラを見た人達はアメリカの罠だと疑っていた人もいたようですが、「爆撃されない」のであれば、頑丈な病院に避難する方が安心なので、病院は避難する人で一杯になったそうです。

  

 


9.昭和レトロな建物

 

築地が空襲に見舞われなかった痕跡を辿って、歩きました。

 

大宗旅館 

築地唯一の日本旅館で、何度かテレビにも出演されているとか。

私は入ったことないのですが、タイル張りの洗面所や彫り細工の施された障子窓は見事だそうです。

 

角地に位置している町屋

奥の町屋風建物2軒と、つながっています。

 


10.勝鬨橋

 

昭和15(1940)年に隅田川最下流に架けられた日本で初めての双葉跳開橋です。

架橋にあたり、隅田川上流に造船所や倉庫があったので、船舶の通行ができるよう、中央径間が「ハ」の字に開く架道橋として設計されました。

竣工当時は東洋一の規模だったそうです。

 



11.ランチ「千里浜」で築地の魚を満喫

 

寒い中、2時間半の街歩きの後は、鯛ちり鍋メインの魚満載コースのランチを楽しみました。

1.お通し

2.鮮魚刺身

3.のどぐろの塩焼き

  これは美味でしたよ。小ぶりですが、身はプリプリで、ほどよい塩味が絶品でした。

4.鯛ちり鍋と雑炊

  鯛の目を見て頂ければ分かります。とにかく新鮮な鯛の身がゴロゴロ入った鍋。

  最後のシメは鯛の出汁がよく効いた雑炊。卵のふわふわ感がたまりません!

 

皆さんにお渡ししたお土産の一部です。

つい先月出来たばかりのお洒落な築地本願寺のインフォメーションセンターで購入した「和三盆」と「煎餅」です。

 

 


12.今回のクイズはこんな内容でした!

 

(1)中央卸売市場築地市場

   現在の築地市場にあたる場所は寛政の改革を断行した●●の下屋敷だった。  

   ①徳川吉宗、②松平定信、③水野忠邦

 

(2)築地本願寺

   1679年に再建されたときの本堂は●●を向いて建てられた。

   ①東南、②北東、③西南

 

(3)浅野内匠頭邸跡

   浅野内匠頭が切腹した田村邸跡地にある新橋の新正堂は大正時代からの和菓子屋さんです。

   こちらはエピソード由来の「●●」という和菓子を売って成功した。

   ①切腹最中 ②忠臣蔵最中 ③匠最中

 

(4)カトリック築地教会

   1862年、●●に開国以来、最初のカトリック教会を建てられた。

   ①横浜、②長崎 ③函館

 

(5)ヘンリー・フォールズ(指紋認証)

   ヘンリーフォールズは病院で起こった盗みを指紋で犯人を見つけ出しました。犯人は何を盗んだのでしょうか?

   ①胃薬 ②アルコール ③お金

 

(6)シーボルト娘 いね

   いねは●●からからオランダ語を学んだ。

   ●●が襲撃された際、師匠の医師ボードウィンの治療のもと、看護しその最期を看取った。

   ①大久保利通 ②大村益次郎 ③佐久間象山

 

(7)モーバーグ

   モーバーグは1934年日米野球でメジャーリーガー選抜として来日しました。

   そして、11月29日の試合を欠場して、聖路加国際病院の屋上から東京市街一円を16ミリカメラで撮影しました。

   そのモーバーグが所属していた球団は?

   ①レッドソックス ②ヤンキース ③レンジャーズ

 

(8)軍艦操練所

   幕府が最初(1885)年に海軍教育機関として設置した長崎海軍伝習所で主に教官を務めたのは○○軍事顧問団?

   ①オランダ ②アメリカ ③フランス

 

(9)築地ホテル跡

   ホテルの開設について、●●は、「民間でこれを行なうものがあれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から資本を募り、利益を出資金に応じて分配する。」とした。

   ①勝海舟 ②永井尚志 ③小栗上野介

 

(10)勝鬨橋

   橋の両端部はアーチ橋となっており、中央部が上方に開く構造となっている。

   開く角度は最大●度、約●秒で全開になる

   ①70度、70秒、②80度80秒、③60度、60秒

 

 

(正解)

(1)②、(2)③、(3)①、(4)①、(5)②、(6)②、(7)①、(8)①、(9)③、(10)①