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ぶらっと両国「江戸の香りを感じる!」

両国で江戸の香りといえば、勝海舟生誕地、赤穂浪士討ち入りの吉良邸、葛飾北斎などが頭に浮かびますが、それ以外にもいろいろとありそうです。

まずはその両国という名前の起源となった橋を訪れます。

 

1.両国橋・広小路跡

 

明暦3(1657)年に発生した「明暦の大火」の被害が甚大だったため、幕府は防災上の観点から橋を架けました。

これは武蔵と下総の二つの国を結んだので、両国橋と呼ばれ、その位置は現在の両国橋の下流約50mの辺りでした。

 

その当時は高い建物もなく、橋の上からは、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。

 

十七世紀末まで、両国橋の西側一帯には「谷之蔵」という幕府の米蔵が置かれていましたが、元禄10(1699)年には撤去され、跡地は武家地や町人地として再開発され、橋の手前部分の火除地は広小路となりました(西広小路)。

それに対し、橋の東側にも回向院との間に広小路が整備されました(東広小路)。

 

また、西側(日本橋側)は「両国広小路」と呼ばれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物の屋台が軒を連ね、この辺りは江戸を代表する盛り場となりました。 

 

 


2.百本杭

 

昭和5(1930)年の荒川放水路が完成するまで、隅田川は水量が多く、特に両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく、流れが急だったため、上流からの流れが強く当たる両国橋の北側には、流れをやわらげ、川岸を保護するため、水中に数多くの杭が打たれました。

 

これらの杭は「百本杭」と呼ばれ、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。

 

江戸時代の歌舞伎でも重要な場面に「両国橋の百本杭」はよく登場します。 

 

 


3.江島杉山神社

 

鍼術の神様・杉山和一が五代将軍綱吉からここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し、総録屋敷を建て、その西隣に弁財天の一社を建立したのが江島杉山神社の始まりです。

そこには藤沢市の江ノ島弁財天と杉山和一総検校が祀られています。

 

杉山和一は、現在の三重県津市で生まれ、幼いころ失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁財天の岩屋にこもり、細い管を使って鍼を刺す管鍼術を授かりました。

その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り、鍼の名人として活躍しました。

 

この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、自分の病を治療させました。

これに感謝した綱吉が「何か望みはないか」と問うと、和一は「ただ一つ、目が欲しうございます」と言ったそうです。

そこで綱吉はここ本所一ッ目に屋敷地を与え、神奈川江ノ島の江島神社をこの地に分霊するのを許したとされます。

元禄6(1693)年のこと。

 

境内にある洞窟には三体の石像が祀られており、内一体の弁財天は頭部が人間、身体が蛇といった異形をしています。

 

 


4.本所松坂町公園(吉良邸跡)

 

この場所は、1702年12月14日、赤穂義士による仇討ち事件が起こった吉良上野介義央の屋敷跡で、この辺り一帯の南北60m,東西130mの広大な敷地で2,500坪ほどありました。

  

江戸城松の廊下で浅野内匠頭が刃傷事件を起こすと、喧嘩両成敗のはずが、吉良上野介は御咎めなしでした。

吉良家はその当時、江戸城近く呉服橋門内にありましたが、幕府はその屋敷を召し上げ、その年の8月にここ本所二ツ目に屋敷を与えました。

幕府は吉良邸を江戸城から遠ざけ、赤穂浪士が仇討ちをしやすくしたのでしょうか??

 

上野介の嫡男義周(よしちか)は当日果敢に戦いましたが、ご沙汰が下ります。

上野介を討ちとられたのは仕方不行き届きとして諏訪高島城に預けられ、その後、21歳で亡くなり、吉良家は断絶しました。

 

 


鼠小僧之墓
鼠小僧之墓
鳥居清長顕彰碑
鳥居清長顕彰碑

5.回向院

 

明暦3(1657)年1月18日、本郷本妙寺から出た明暦の大火は江戸中を焼き尽くし、死者10万人を出しましたが、その原因は本妙寺で振袖を焼いたこととされ、「振袖火事」と呼ばれています。

この火事の焼死者を集めて埋葬し、塚を築いて回向したのが回向院の始まりです。

 

境内には昭和11(1936)年に日本相撲協会が歴代年寄慰霊のために建てた力塚があります。

江戸時代の相撲は、寺の修復費用を稼ぐために催された勧進相撲でした。

 

【鼠小僧治郎吉の墓】

パワースポットとしては、鼠小僧治郎吉の墓があります。

実際の治郎吉は庶民にお金は配っておらず、飲む打つ買うに使っていました。

現在では、これ以上落ちないと言うことで治郎吉の墓石を削る人がいるようです。

 

また、回向院ではペット供養もやりますが、家綱公の愛馬を回向院で供養したのが起源だそうです。

 

女性の八頭身を描いた浮世絵師・鳥居清長顕彰碑もあり、これを触ると美人になれるそうです。

石碑正面には清長の「大川端夕涼み」(平木浮世絵美術館蔵)に登場する女性が描かれたブロンズプレートが付けられています。

(「長林英樹信士」は清長の法名)

 

 


6,旧国技館跡

 

天保4(1833)年から回向院で相撲興行が行われていたことから明治42(1909)年、その境内に旧国技館が建設されました。

 

しかし、東京大空襲まで三度の火災に見舞われ、戦後は進駐軍に接収されました。

返還後は日大講堂として利用されましたが、昭和58(1983)年に解体されました。

 

現在、両国シティコアビル中庭の円形は当時の土俵の位置を示しています。 

 

 


7.両国公園(勝海舟生誕の地)

 

勝海舟は父小吉の実家である男谷精一郎の邸内だったこの地で生まれました。

 

勝家は貧乏でしたが、男谷精一郎はその門人・島田虎之助と共に幕末の剣豪であり、千石取りの旗本で、ペリー来航後、幕府の軍備再編成により講武所では頭取並になっています。 

 

 


8.能勢妙見山の東京別院

 

安永3(1774)年、能勢筑前守頼直が江戸の下屋敷に妙見堂を建立して、摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。

この妙見大菩薩は日蓮宗の守護神で、江戸っ子には開運厄除けの神として信仰を集めました。

震災と戦災で焼失しましたが、昭和28年から15年を費やして再建されました。

 

【勝小吉(勝海舟の父)との関わり】

勝麟太郎(後の海舟)が子供の頃、犬に噛まれて重傷となった時、父小吉はこの妙見堂で水垢離をして息子のケガが平癒することや出世を祈ったと言われています。

そんな縁から勝海舟晩年の胸像があります。

 

 


9.野見宿禰神社

 

江戸時代、弘前藩津軽家の江戸上屋敷にあった屋敷稲荷社から発展し、津軽家上屋敷が維新後、上地された後、明治18(1885)年、高砂浦五郎によって、相撲の神様といわれる野見宿禰を祀ったのがこの神社の始まりです。 

 

境内には昭和27(1952)年、日本相撲協会によって歴代の横綱の碑が建立されました。

1基目は初代明石志賀之助がら刻まれており、存命中の横綱は赤字の寿刻となっています。

新しく横綱が誕生した際には、 神前で土俵入りが披露されるそうです。

 

江戸時代は横綱という地位はなく、最高位は大関でした。

大関の中で心技体が優れた人が綱を締めることができ、それが「横綱」になりました。

 

【野見宿禰(のみのすくね)】

日本書紀によれば、今から約二千年前、奈良県桜井市穴師のカタヤケシに於いて初の天覧相撲が執り行われたとあります。

この時に闘ったのが野見宿禰と当麻蹴速(たいまのけはや)。

勝利した宿禰は領地を与えられました。

 

  


10.徳山稲荷神社(徳山五兵衛屋敷跡)

 

明暦の大火後、幕府は本所の開発に乗り出し、万治3(1660)年、本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛で、掘割の開拓、湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成など、今の本所の基礎となる街並みを作りました。

その功績によりこの地に屋敷を賜りました。

 

五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となりました。

 

孫の徳山五兵衛は寛保4(1744)年に御使番から御先手鉄砲頭に転じた後、火付盗賊改方に就任し、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊・日本左衛門を捕らえたことで有名です。

 

  


11.レストラン クインベル

 

【鯛とホタテのディアブルソース焼き】

お品書きを見ると、粒マスタードソース、バジルトマトソース、白ワインソース、サフランソースなど、いろいろなソースがありましたが、その中でも聞きなれない「ディアブルソース」を頼んでみました。

あとで調べると、ディアブルソースの別名は「悪魔のソース」と言われるらしいです。

 

このソースは肉料理が多いようですが、魚料理にも合います。

ピリ辛のデミグラスソースという感じで、食欲がわきます。

 

また、ソテーされた鯛の下にマッシュポテトが添えてあり、これが「おやっと」思う意外な触感を生み、アクセントとなっていました。

 

昭和の喫茶店のような雰囲気の下町の洋食屋さんは、その外観から想像できなかった本格的なフレンチでした。