ぶらっと芝「増上寺」

1.芝といえばやはり「東京タワー」

 

このあたり、どこにいても見ることができます。

 

東京タワーは1958年12月23日竣工。

私と同い年なんですね、だからかもしれませんが、スカイツリーよりも東京タワーに哀愁を感じます(笑)。

 

昭和の時代や東京という地理的背景を説明するためのシンボルとして、さまざまな小説やALWAYS 三丁目の夕日などの映像作品の中に登場しています。 

 


2.有章院霊廟二天門

 

現在の東京プリンスホテルは、戦前、増上寺の北廟で、そこには、6代将軍家宣の文昭院霊廟と7代家継の有章院霊廟がありました。

 

戦前は日光東照宮と同じような華麗な建築物が立ち並んでいましたが、それらも戦災でほとんどが焼失、その中で、有章院霊廟二天門が残っています。

その霊廟は8代将軍吉宗が享保2(1717)年、建立したもので、この門は、現在、国の重要文化財に指定されています。 

 

この門には、左に西方を守護する広目天、右に北方を守護する多聞天(別名 毘沙門天)が祀られているため、二天門と呼ばれます。 

 

北廟には、文昭院の霊廟の門もあって、持国天と増長天があり、2門あわせて仏法を守護する四天王が祀られていました。

 


3.御成門

 

御成門は増上寺の裏門でしたが、将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになったそうです。

 

 


4.浅岡飯たきの井

 

このあたり、仙台藩伊達家の支度所 良源院があったとされ、藩主などの増上寺参詣の折に使われていました。

 

万治3(1660)年の伊達騒動の際に四代目となる嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、浅岡の局(三沢初子)がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられています。 (諸説あり) 

 

以前、ぶらっと目黒で歩いた正覚寺は、伊達家三代藩主綱宗の側室で、四代藩主綱村の生母にあたる三沢初子の父母の菩提寺で、寺内には初子の墓(東京都文化財・旧跡指定)がありました。

 

 


5.ペルリ提督の像

 

Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)

 

昭和28年7月20日の日本開国百年記念祭のとき、東京都民からペリーの出身地のニューポート市に石灯籠1基を贈ったそのお返しに贈られてきたのがこの像だそうです。

 

このペリー像と向き合うように、「万延元年遣米使節記念碑」が建っています。

万延元年遣米使節とは、万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書を交換するために結成された、新見正興(しんみまさおき)を正使とする使節団で、米国軍艦ポーハタン号に乗船して渡航しました。

往路は勝海舟や福沢諭吉らの乗る咸臨丸が同行しました。

 


6.増上寺前「松原」

 

増上寺三門前にあたる一帯は古くから「松原」と呼ばれ、江戸時代の番所跡と伝えられています。  

 

寛永17(1640)年、増上寺20世大僧正南誉(なんよ)上人の時代、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。

 

 


7.増上寺「三解脱門」

 

元和8(1622)年、徳川幕府の助成により幕府大工頭・中井正清とその配下により建立、再建されました。

増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。

 

三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。

 

上層部(楼上)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。  

 

その特異的な色と意匠は錦絵の題材となっています。

 


8.増上寺「大殿」

 

昭和49(1974)年、戦災で焼失した本堂が再建されました。

 

室町期の阿弥陀如来像、脇仏に法然上人像、善導大師像が祀られています。

 

後ろに見える東京タワーとのコントラストがいいです・・

 

 


9.増上寺「貞恭庵」

 

和宮ゆかりの茶室。

茶室の名前は和宮の法名「静観院宮増一品内親王好誉和順貞恭大姉」の最後の「貞恭」に由来します。

和宮が江戸城で利用していた茶室ではなく、明治以降に利用していた茶室のようです。

 

原則、毎月第4日曜日に公開され、お茶をいただくことができますが、現在はコロナの影響で中止されているようでした。

 

ここでも、コロナの影響が・・・残念です。

 

 


10.増上寺「徳川将軍家墓所 鋳抜門」

 

文昭院殿霊廟(六代将軍徳川家宣)の宝塔前「中門」であったものが移築されました。

 

左右の扉は青銅製で五個ずつの葵紋が配され、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。 

 

 


11.増上寺「徳川将軍家墓所」

 

戦災で焼失した旧徳川家霊廟は、現在の大殿の左右に建ち並んでいました。

昭和33(1958)年夏、文化財保護委員会が中心となって発掘された土葬の遺体は、綿密な調査後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。

 

埋葬されているのは、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として二代秀忠夫人崇源院、六代家宣夫人天英院、十一代家斉夫人広大院、十三代家定夫人天親院、十四代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては三代家光の桂昌院、六代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。

 

二代秀忠公の墓所では焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでしたが、木造のため、戦災で焼失し、現在は、内室崇源院と共に合祀されています。

 

十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は 6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁しました。

夫である家茂との仲は良かったと伝わっています。

その証拠に、和宮のお墓から出てきた副葬品に「烏帽子に直垂姿の男性が映った写真」があったそうです。

ただ残念ながら発掘したときの保存状態が悪かったため、次の日にはただのガラス板になってしまいました。

 

この写真に写っていたのが家茂だと確認は出来なかったようですが、和宮の遺言は「家茂の側に葬って欲しい」ということから、写真は家茂だった可能性が高いと思われます。

また、家茂も側室は持っていなかったので、和宮を想ってのことだったのでしょうか。

たった4年の結婚生活でしたが、2人は政治に利用されながらも愛情を育んでいたのだと思います。

 

和宮は家茂の死後、落飾して静寛院と称し、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年、31歳という短い生涯を閉じました。

 

没後、遺体は京都へ戻すよう沙汰がありましたが、本人の遺言にしたがい、家茂と同列に並んで増上寺に祀られました。

 


12.増上寺「安国殿(和宮像)」

 

戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿が完成した時、境内北側に移転し、御堂「安国殿」としました。

老朽化のため、平成23(2011)年、法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されました。

 

鋳造師の慶寺丹長師により昭和3年に製作された和宮像があります。

 


13.芝東照宮

 

徳川家康が還暦に刻ませた「寿像」を安置する増上寺安国殿が前身。

 

家康が慶長6(1601)年に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、駿府城に於いて祭祀しました。

元和2(1616)年、家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言し、同年10月に着工し翌元和3(1617)年2月に竣工しました。

この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれ、これが芝東照宮の起源です。

 

安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮を称し、御神像を本殿に安置しました。

明治6(1873)年には郷社に列し、社殿は寛永18(1633)年の造替当時のものが維持されていましたが、昭和20(1945)年5月25日の戦災により、御神像の「寿像」と天然記念物の公孫樹を除いて社殿は焼失しました。

 

昭和44(1969)年、現在の社殿が再建されました。

 

(神木のイチョウ)

寛永8(1641)年、安国殿の再建に際し、三代将軍徳川家光が植えたものと伝わります。

 

 


14.芝丸山古墳

 

都内最大級の前方後円墳で、築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、東京都の指定史跡にもなっています。

5世紀に勢力をのばしていた南武蔵有数の族長の墓だと考えられています。

ただし古墳といっても現在ではその原型はとどめていません。

 

以前、ぶらっと上野で行った上野公園内に、上野寛永寺の旧境内にあった前方後円墳の摺鉢山(すりばちやま)古墳もありました。

 

 

現在、ぶらっと散歩はコロナの影響でまだ再開出来ておりません。

収束の兆しがなかなか見えませんが、1日でも早く普通の状態(みんながおしゃべりしながら歩き、その後の食事やお酒もワイワイガヤガヤと楽しめる日)が来ることを祈っています。