ぶらっと本郷「江戸の大名屋敷から明治の文豪旧居跡を巡る」!

東大赤門
東大赤門
東大正門
東大正門

新型コロナウィルスの影響で、現在、ぶらっと散歩は休止中ですが、過去に歩いた場所をまとめてみることにしました。

 

まずは、「本郷」。

ちょっと前までは、東京大学の学生たちが住んでいた下宿屋が数多くあり、東京のど真ん中ですが、何となくゆったり時間が流れているように感じる街です。

 

東大周辺に残る江戸時代の大名屋敷跡や明治の文豪たちが住んだ街の痕跡を巡りました。

 

1.東京大学赤門「加賀藩前田家 御守殿門」

 

加賀藩上屋敷は慶長10(1605)年に和田倉門外の辰之口に与えられていましたが、大坂の陣後、元和2(1616)年頃、本郷に屋敷地を拝領、これを下屋敷とし、辰口は上屋敷としました。

 

その後、明暦の大火で辰口邸が焼失、代わりに筋違御門外(現秋葉原付近)に上屋敷を、駒込にも屋敷地を拝領しました。

しかし、筋違邸も天和2(1682)年の大火で焼失、翌年、本郷の屋敷を上屋敷、駒込を中屋敷、延宝7(1679)年に拝領していた平尾(板橋宿隣接)の屋敷を下屋敷としました。

 

本郷屋敷の赤門はもともと15mほど奥の位置にありましたが、大学構内整備のため、明治36(1903)年に現在地に移設されました。

 

この赤門が東大の正門かと思いきや、正門は別にあります。

赤門のように江戸時代の面影を持ったものではありませんが、立派な作りです。

赤門前で写真を撮る方は多いですが、こちらは少ないようです(笑)。 

 


2.東京大学 三四郎池「加賀藩前田家上屋敷庭園(育徳園 心字池)」

 

寛永6(1629)年4月、前田家三代藩主利常の時、徳川3代将軍家光・大御所秀忠の御成があり、そのため豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園(育徳園)を整備しました。

そこには心字池という池がありました。

 

夏目漱石の名作「三四郎」はここを舞台としたため、この池は「三四郎池」と呼ばれるようになりました。

 


3.東京大学「蛇塚」

 

東大キャンパス内に古びた燈篭があります。

こちらは前田家の女中屋敷があった場所で、そこでは不義を働いた女中が折檻を受け処刑されたそうです。

 

蛇をいっぱいに放った部屋にその女中を閉じ込めた折檻に由来しています。

 

この燈篭はその女中を弔うため建立されたらしいです。

 

その後、何度かこの場所で工事しようとしましたが、そのたびに事故が起こり、そのうち工事をしようとするものはいなくなり、現在に到っているとのこと。

 

この燈篭、名前を「蛇塚」という・・・(怖)

 


4.東京大学「大聖寺藩江戸藩邸跡」

  

寛永16(1639)年、加賀藩三代藩主前田利常は47歳で小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩80万石を、二男利次に富山藩10万石を、三男利治に大聖寺藩7万石を与え、分封しました。

 

大聖寺藩は江沼郡全域と那谷村及び能美郡を加えたものでした。

 

九代藩主利之の文政4(1821)年、新田1万石、加賀藩から現米2万俵を受け、加賀藩からの願出により、幕府から10万石の待遇を公認されました。

以降、明治4(1871)年の廃藩置県により大聖寺県となるまで続きました。

 

九谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、九谷村に窯を築き、産出したと伝わります。

 

 


5.根津神社と根津遊郭の跡地

 

根津神社は日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝わる古社。

 

現在の社殿は宝永3(1706)年の創建。

宝永2(1705)年、五代将軍綱吉の養嗣子に兄綱重の子 綱豊(六代将軍 家宣)が入ったため、元の屋敷地が献納され、「天下普請」の大工事で造営されました。

 

社殿新造のため、集まった大工や左官ら職人相手の居酒屋ができ、女性に接客させるようになり、それが私娼の集まる岡場所(非公認の遊郭)となりました。

しかし、他の遊郭と同じく、幕府からたびたび規制を受け、天保の改革により根津遊郭は新吉原へ移されました。

 

これが復活したのは明治2(1869)年。

明治12(1879)年には妓楼 90軒、遊女 574人を数えるまでに発展し、大松葉楼など大きな店を構えました。

明治15(1882)年の当局の調査によると、娼妓の数は吉原(1,019人)、根津(688人)、品川(588人)となっており、繁栄していたことが分かります。

 

ところが、同年、隣の本郷に東京大学が出来たことにより、学生たちの中には入りびたるものもいて、さすがに風紀上好ましくないという理由で遊郭移転の議論が起こり、結局、根津遊郭は洲崎(現江東区)に移転することになりました。

 


春日局御廟所
春日局御廟所

6.麟祥院「春日局の菩提寺」 

 

寛永元(1624)年、三代将軍徳川家光の乳母 春日局の隠棲所として創建され、春日局の法号をもって「天澤山麟祥院」と号するようになりました。

 

春日局(福)は天正7(1579)年、明智光秀の片腕とされた斎藤利三の娘として生まれました。

しかし、福がまだ幼かった頃、本能寺の変で父は捕らえられ、六条河原で処刑され、他の兄弟たちも消息が分からなくなってしまいました。

 

福はその後、母方の親戚を頼り、公卿である三条西公国に養育された結果、武家、公家の素養をどちらも身に着けた女性として成長しました。

 

そして、稲葉正成の妻となりますが、正成は関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋を説得し、東軍に寝返らせた功労者でした。

その後、福は正成と離縁の形をとり、将軍のお世継ぎ竹千代(後の三代将軍 家光)の乳母に任命されます。

 

家光の将軍就任に伴い、「御局」として大奥を取り仕切るようになり、家光の生母 江の死後、福はさらに権力を握りました。

 

寛永20(1643)年、春日局は亡くなりますが、その墓石には穴が開いています。

これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言をもとに作られたそうです。

 

 


7.西教寺表門 

 

徳川家重臣 酒井雅樂頭(井伊家と並ぶ大老の家柄)の屋敷から明治7(1874)年、移築されました。

 

大正12年の関東大震災の時、被害を受け、重量軽減のため、瓦葺から銅板棒葺にするなど修理が行われました。 

 


8.高崎屋「追分一里塚」

 

一里塚は日本橋を起点として街道筋に一里(4km)ごとに、駄賃の目安、道程の目印、休息の場として旅人のために設けられた塚です。

  

ここは日光御成道との分かれ道で、中山道の最初の一里塚がありました。

分かれ道にあったので、追分一里塚とも呼ばれていました。

 

この場所に現在でもある高崎屋は江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね、「現金安売り」で繁盛しました。

 


9.法真寺

 

慶長元(1596)年、知恩院より寺号を附与されますが、開山年は不詳。

 

明治の文人 樋口一葉ゆかりの寺です。

樋口家は明治9(1876)年に法真寺の隣に引っ越してきて、一葉は4歳から9歳までこちらに住みますが、この時代は父親の事業も順調で、経済的にも恵まれており、一葉にとっては最も安定した時でした。

 

一葉の作品「ゆく雲」の中で「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒(しきみ)の枝につもれるもをかしく」と当時の法真寺の情景を書いています。

 


10.金魚坂 

 

創業は江戸時代らしく、350年以上だそうです。

当時の金魚は高級で大名の観賞用やお毒見用として需要があったらしい。

 

現在は様々な金魚はもちろん、ザリガニまで販売しており、何と金魚釣りも楽しめます。

敷地内にはカフェが併設されており、金魚を眺めながら、ゆったりした時間を過ごすことが出来ます。 

 

先日、テレビで「金魚姫」というドラマを見ましたが、人生に行き詰った青年が金魚の化身である謎の美女と出会い、再び生きる意味を見出すという奇想天外なストーリーだったのですが、ここ「金魚坂」のことを思い出しました。

 

しかし、東京のど真ん中にこのような金魚専門店があるとは・・・本当にここだけ時間が止まったようです。

 


11.一葉旧居跡

 

父親と長男が亡くなり、一葉は母と妹を養わなければならない立場となり、明治23(1890)年、3人で本郷菊坂に引っ越してきて明治26年まで借家に住んでいました。

生活は苦しく、針仕事など内職をして一家の暮らしを支えました。

 

明治24(1891)年、東京朝日新聞 半井桃水(なからいとうすい)の指導のもと、一葉は小説家になることを決意し、翌明治25年に雑誌「武蔵野」創刊号に「闇桜」が掲載され、小説家として第一歩を踏み出すことが出来ました。

しかし、生活は相変わらず苦しい日々が続きました。

 

本郷界隈は関東大震災や東京大空襲を免れた建物が多く残っており、かつての風景を感じられる場所です。 

樋口一葉旧居跡は当時のままというわけではありませんが、一葉も使ったとされる井戸が残っています。 

 


12.一葉ゆかりの旧伊勢屋質店 

 

生活が苦しかった一葉がたびたび通ったと伝わる質屋があった場所で、白壁の蔵が印象的です。 

その様子は一葉の作品の中にも見ることが出来ます。

 

明治26(1893)年、一家で下谷竜泉町(現台東区竜泉)に移ってからも、その翌年、終焉の地 本郷丸山福山町(現 西片一丁目)へ移ってからも伊勢屋との関係は続いていたようです。 

 

明治29(1896)年、一葉が24歳で亡くなると、伊勢屋が香典を持っていき弔ったと伝わります。

 


13.源覚寺「こんにゃく閻魔」 

 

寛永元(1624)年に開創されて以来、4度の大火、さらに太平洋戦争の空襲にも見舞われましたが、ご本尊も閻魔様も難を逃れることが出来ました。

 

【こんにゃく閻魔】 

源覚寺の閻魔様の右目は割れて濁っています。

この由来は、宝暦年代の頃(1751~1764年)、眼病を患った老婆が閻魔様に祈願を行ったところ、夢の中に閻魔様が現れ、「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、一つを差し上げよう」と言われたそうです。

満願成就したその日に老婆の目は治り、以来、閻魔様の右目は盲目となりました。

 

老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを断ち、閻魔様に供え続けました。

これにより、源覚寺の閻魔様は「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔様として人々の信仰を集めています。 

 


14.青いナポリ 

 

ランチ時の「青いナポリ」はかなりの行列が出来ていました。

地元の方に支持されているようで、有名なのでしょうね。

 

閑静な住宅街に佇む一軒家の2階にあるイタリアンで、開放的なテラス席があり、天気の良い日は最高のロケーションです。

 

店内にはイタリアから直輸入したという薪窯があり、カウンター席からはピッツァを焼く様子がよく見えます。

また、客層を見ると小さなお子さんを連れた親子が多いので、そういった対応もよいのでしょう。

 

本日チョイスしたのは豚ロースメインとシラスのパスタのコース。

塩加減がいい感じのパスタでした。

次回はピッツァを食べてみたいと思います。