ぶらっと昭和レトロ散歩「代々木公園~渋谷」!

1.代々木公園「東京五輪選手村記念碑」

 

代々木公園は戸時代、加藤清正の子孫の屋敷地を、当時の彦根城主井伊直孝が拝領しましたが、明治の終わり頃には陸軍の練兵場となりました。

 

そして第二次世界大戦後は連合国に接収され、アメリカ軍将校家族宿舎「ワシントンハイツ」が建設されていましたが、その後、日本に返還され、その跡地に第18回オリンピック大会(昭和39)の選手村が設けられました。

敷地面積は約66万平方メートル、5,900人を収容できる施設で、 当時、ここ以外では八王子、相模湖、大磯、軽井沢などの分村が作られ、競技によってはそちらの選手村が利用されたそうです。

 

オリンピック終了後、造成工事に着手し、昭和46年、代々木公園としてオープンしました。

 

武家屋敷から練兵場、そしてアメリカ軍家族宿舎、オリンピック選手村、そして現在の代々木公園に至る江戸時代から昭和の変化は、まさに激動の連続でした。

 


2.代々木公園「十四烈士自刃之處」

 

昭和42(1967)年に開園した代々木公園、それ以前にあったのが、明治42(1909)年に設けられた陸軍の代々木練兵場。

その西側に木々が鬱蒼と繁るちょっと周りと違った空気の漂う一角があり、「十四烈士自刃の處」と刻んだ石碑があります。

 

右翼結社「大東塾」の14人が終戦の玉音放送から10日経った昭和20年8月25日、ここで割腹自殺した場所です。

 


3.代々木公園「日本航空発始之地」

 

日本における初の動力飛行は、陸海軍の合同で発足した臨時軍用気球研究会が計画しましたが、専用の飛行場がなかったため、陸軍省の代々木練兵場が使用されました。

 

御三卿の清水徳川家の徳川大尉がフランス製アンリ・ファルマン1910年型を操縦して成功しました。

 

ここで日本最初の飛行が行われたことを記念する碑です。 

 


4.代々木公園「第十八回オリンピック競技大会選手村配置図」

 

選手村は当初、埼玉県朝霞市に作られると思われていました。

朝霞は戦時中から帝国陸軍の施設が集中していた軍都で、戦後は米軍四千人が駐留しており、ワシントンハイツのような家族住宅も併設されていたからです。

競技場までの距離は約20キロ、それは高速道路で結ばれる予定でした。

 

米国防総省は市ヶ谷に米軍司令部を置くと決めていましたし、赤坂には駐日米国大使館もあり、代々木はアクセス抜群だったので、ここ代々木を手放すとは思っていませんでした。

 

ところが、突然アメリカ側が「代々木のワシントンハイツを全面返還したい」と言ってきたのです。

当然、その移転費用は日本側が負担すると言う条件でしたが。

 

背景には前年に盛り上がった日米安保闘争がありました。

そのような状況の中で、東京の中心にワシントンハイツがあるのは危険、反米感情を強めかねない、そんな判断があったようです。

 

その結果、ついにワシントンハイツは日本に返還され、その北側半分がオリンピック選手村として生まれ変わりました。

宿泊施設は戦後すぐに建設された木造のアメリカンハウス250軒と後で増設された独身用鉄筋アパート14棟があてられました。

かつての将校クラブはダンスホールに、学校はインフォメーションセンターとして使われました。

 

そして、その様子は世界中に報道されました。

 


5.代々木公園「オリンピック記念宿舎」

 

この建物は当時各国の選手が利用した宿舎の一つで、オランダ選手宿舎だったものです。

東京オリンピックを記念して保存されています。

 

2020年、晴海に作られている選手村と比べると随分違いますね、木造の平屋が「昭和」の雰囲気を醸し出しています。

  


6.代々木公園「東京オリンピック記念樹木見本園」 

 

1964年、世界各国から選手が東京オリンピックに参加し、代々木の選手村で過ごしました。

彼らはオリンピックを記念し、心の交流と世界の平和を願って自国の代表的な種子を持ち寄りました。

 

当初、持ち寄られた22か国24種類の種子は育成のため、各地の林業試験場に送られ、昭和42(1967)年に苗木となって代々木公園に戻り、この場所に植えられました。

 


7.代々木公園「昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑」

 

大正3(1914)年4月11日、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が崩御されました。

5月2日から30日にかけて大喪の諸儀が執り行われ、24日には代々木練兵場(現代々木公園)において、「葬場殿の儀」が行われました。

 

翌年、昭憲皇太后一年祭にあたり、伏見桃山東陵の遙拝式が東京府主催にて当地で行われ、その後、葬場殿の跡地を保存し、東京府より碑の建立申請がなされ、大正6(1917)年12月、陸軍より、約3.6m2の用地が東京府に引き渡され、翌7年4月に碑が完成しました。 

 


8.二・二六事件慰霊像

 

二・二六事件の決起将校たちは昭和11(1936)年3月4日から「一審、上告なし、非公開、弁護人なし」という戒厳令下での特設軍法会議で裁かれ、16名の決起将校が死刑の判決を受け、7月12日には最初の処刑が行われました。

 

処刑場は現在の渋谷区役所、神南小学校のあたりにあった「陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所」の西北隅に設けられました。

それが、ここ渋谷税務署の一角です。

 

碑文には事件の経緯を述べた後、「この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を集め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、いまここにその竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。」と締めくくられています。

 

現代の渋谷を闊歩する若者たちはこの慰霊像の存在に気づいているのでしょうか・・・

 


9.陸軍用地の石柱 

 

このあたりが陸軍用地だった証しが、渋谷のど真ん中(渋谷東急ハンズのそば)に戦後75年経っても残っています。 

 


10.渋谷暴動事件 

 

昭和46(1972)年11月10日、沖縄で沖縄返還協定批准阻止を訴えるゼネラルストライキが打たれました。

同年6月17日調印の協定では核兵器撤去は明示されず、施政権返還後の米軍基地は日米安保条約により、提供施設として存続することになったことが発端。

こうした動きに渋谷で中核派の学生が激しい抗議活動を起こしたのが、いわゆる「渋谷暴動」です。

 

この暴動を規制するため、出勤していた新潟中央警察署の中村巡査は学生にめった打ちされ、ガソリンをかけられたうえ、火炎瓶を投げられ、火だるまになって死亡しました。享年21歳。

 

2000年、中村巡査が暴行を受けた渋谷神山町に、慰霊碑が建てられました。

 

今では大人のお洒落な街となった「奥渋」の一角に、周りとは一線を画した雰囲気で残っています。