【第28回】ぶらっと麻布十番散歩「麻布七不思議の謎を巡る」を実施しました!

1.【第28回】ぶらっと麻布十番散歩「麻布七不思議の謎を巡る」を令和2年1月12日、実施しました!

 

今回のテーマは麻布周辺で語り継がれている「麻布七不思議」にまつわる場所の探索。

 

七不思議は「大ガマ」「狸」「猫」「鼠」などが登場する奇想天外なお話です。。。 

 

 


2.狸穴公園「狸穴の小洞」

 

(狸穴の婚礼)

品川の御殿山から四谷に続く狸穴の細い洞窟に数千の狸が棲んでおり、これらが田畑を荒らしたりして百姓を苦しめていました。

そこで家康の家来 井伊直政は家老の庵原助左右衛門(いおはらすけざえもん)に狸を退治するよう命じます。

 

助左右衛門がこちらの狸穴に入ると、美少年が現れ、主人の御殿に案内しました。

主人は婚礼の真っ最中で、助左右衛門にも酒を勧め、酔っ払った助左右衛門は寝入ってしまうと、主人がその枕元に立ち、「俺は狸穴の主人だ。その方の肝の据わった態度に免じて、今日はこのまま帰してやる。江戸も何かと騒がしくなってきたので、まもなく引越すので退治は無用!」と言ったところ、目の覚めた助左右衛門は刀を抜き切りつけました。

すると、今までいた御殿は炎と共に一瞬にして消え去りました。

 

その後、天正18(1590)年に麻布一帯に地響きが起こり、助左右衛門が狸穴に行ってみると、狸の引越しの真っ最中。

そこで、助左右衛門はためらうことなく、鉄砲を撃ち、狸を退治します。

しかし、その中で一匹だけ子狸が生き残り、猫の妖怪に育てられます。

この狸が成長して近所の人々に害をなしたという麻布七不思議にからんできます。

 

(我善坊の大鼠)

我善坊にあった万屋という質屋の娘おたまは番頭の長次郎と深い仲になります。

ある夜、古くから棲みついている猫が長次郎に成りすまして、おたまの寝所に忍び込んだ。

その光景を見た、やはり古くからその家に棲みついている大鼠が激怒し、その猫をかみ殺してしまいます。

 

その後、おたまは猫のように泣く赤ん坊を産み、このあたりで評判になった・・

 

猫の妖怪に大鼠と、これはもうビックリの奇想天外なお話です(笑)

 


3.十番稲荷神社「かえるの由来」

 

(ガマ池伝説)

備中成羽の領主 山崎主税助治正の敷地内の池に棲んでいた大ガマが、二人の家臣を殺したため、怒った主税助は池の水を抜いて退治しようとしました。

すると、主税助の夢枕に白衣の老人と化した大ガマが現れ、詫びを入れ、今後は火災から屋敷を守ることを約束し、火傷の薬を伝授しました。

そこで主税助は池の畔に祠を建てて祀ることにしました。

 

その後、文政4(1821)年、麻布に大火が発生し、主税助の屋敷にも迫ってきましたが、なぜかその屋敷だけは類焼を免れました。

これは池に棲む大ガマが水を吹きかけて、火を退けたに違いないと人々が噂しました。

大ガマは主税助との約束を守ったのですね。

 

山崎家ではその後、「上」という一字が書かれた御札を授けるようになり、「上の字様」と呼ばれ、防火・火傷のお守りとして大変な人気を博しました。

 

明治維新後、山崎家が移転したのち、同家の家来筋に当たる清水家から頒布したそうですが、同家の子息はこの御札の売上で帝大の学費が出たと言っています( ^ω^)・・・。

 

その後、御札の発行は昭和2年に末広神社に任されましたが、竹長稲荷(後の十番稲荷)に合併されたころから頒布を止めました。

 

現在では「かえる」の語音から旅行や入院の際、無事かえる、元気でかえる、遺失物がかえる、若がえる等「かえるのお守り」として復活、かえるの石像も奉納された。

 

 「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、ほぼそのままの姿で復刻し、防火・火傷除けに諸災難除けの御利益も加わった「上の字御守」として平成20年より授与されています。

 


4.きみちゃん像

 

「赤い靴、はいてた女の子、異人さんにつれられて行っちゃった・・・」という誰もが知っている野口雨情の「赤い靴」。

しかし、この女の子は異人さんに連れられて行ってなかったのです。

 

実在した少女 岩崎きみちゃんは明治35(1902)年生まれ。

母親が再婚して北海道開拓農場に行くことになった時、当時の開拓地の厳しさから、きみちゃんを養女としてアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に出しました。

 

ヒュエット夫妻が帰国しようとした時、きみちゃんは当時不治の病だった結核を患ってしまい、長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられます。

 

そこで、異国に行くこともなく、母との再会もかなわず、わずか9歳で亡くなりました。

 

母親は最愛の娘がアメリカで幸せに暮らしていると思い込んだまま亡くなります。

 

その少女の最期を看取った孤児院が麻布の鳥居坂教会だったことから1989年2月28日、パティオ十番に『きみちゃん像』が建立されました。

 

この話はテレビ番組の追跡で判明したそうです。 

 

5.一本松坂

 

天慶2(936)年、源経基がこの地にあった民家に宿泊して、柏の葉に盛った栗飯を御馳走になり、そのお礼として、翌朝、装束を松にかけて、麻の狩衣に着替えて帰っていったと伝わります。

 

この一本松は「麻布七不思議」の一つでもあり、甘酒を竹筒にいれて、この松におさめると咳が治るといわれていました。

 

他にもいくつかの説があります。

(1)ここは、もともと古墳であった。

(2)江戸初期には「首吊塚」とも呼ばれており、関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、埋めた所だった。

 

(六本木の落人伝説)

昔、平家落武者が6人、この地まで逃れてきたが、精根尽き果て、内5人が自分たちが生きた証に、それぞれの榎の若木を植えてから腹を切った。

残った一人はさらに落ち延び、一本松の場所で、腹を切ったという。

 

この落武者たちを哀れに思った村人が5本の榎と一本の松を植えて弔ったと伝わります。

この6本の木が「六本木」の由来だそうです。(諸説あり) 

 

6.狸坂

 

人をだます狸がいたことから「狸坂」と名付けられました。

ここの狸が、石を赤ん坊に見せかけて人間に運ばせたため、いつもこの坂には石塔などが転がっていたそうです。(笑)

 

港区にはなんと、昭和35(1960)年頃まで狸が棲んでいたというから驚きです。

 

7.ガマ池の痕跡

 

かつて広さが約五百坪あったがま池は、四面が深い樹林に囲まれ、いかなる日照りにも涸れたことがなかったと言われています。

 

現在ではその大部分が埋め立てられ、あやうく無くなりそうになりましたが、この周辺に住む外国人が由緒あるこの池の保存を主張したため、わずかにその一部となってしまいましたが、残されています。

 

日本人は案外「しょうがない」とあきらめていたようですが、外国の方はその池に伝わる伝説を大事にしてくれたのですね。

 


8.柳の井戸

 

空海(弘法大師)が柳の木の下で鹿島大明神に祈願して錫杖を立てたところ、湧き出してきたと伝わります。

そのため、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になったと言われています。

 

現在でも少量ながら水が湧き出ており、関東大震災や東京大空襲の際は多くの人々が飲料水として利用したそうです。

 

この湧水は、東京の名湧水57選にも選ばれる名水です。

 


1ヶ月ほど前の下見での写真
1ヶ月ほど前の下見での写真

9.善福寺

 

天長元(824)年、弘法大師によって真言宗を関東一円に広めるために高野山に模して開山されました。

都内では浅草寺につぐ最古の寺院といわれています。

鎌倉時代、親鸞聖人が訪れたのをきっかけに浄土真宗へ改宗。

 

安土桃山時代の浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦いで、善福寺は大阪石山本願寺に籠城する僧に援軍を送りました。

乱後、豊臣秀吉は関東を平定すると、天正18(1590)年、当寺に寺領保護を誓約しました。

 

この寺院は慶長年間に徳川家康が京都東本願寺として建立したもので、三代将軍家光が本堂を寄進するなど徳川家とも縁があります。

 

当時の本堂は戦災で焼失。

現在のものは昭和36(1961)年大阪府八尾市の東本願寺別院を移築した江戸初期の立派な建築です。

 

 

(最初のアメリカ公使宿館跡)

安政6(1859)年に日米修好通商条約により、来日したアメリカ公使ハリスの官邸となりましたが、文久3(1863)年には水戸浪士らに放火され、一部焼失。

また、ハリスの通訳ヘンリーヒュースケンは古川にかかる中ノ橋近くの路上で尊攘派の武士に襲われ、絶命。

  

ハリスの肖像は昭和11年に建てられましたが、戦時中は縄でゆわえられ、土で周りを固めてあったが、戦後元通りに復活しました。

 

 


10.善福寺「逆さ銀杏」 

 

親鸞聖人が地面に立てた杖から枝葉が広がり、その場に根付いて銀杏になったと伝わります。

樹齢は750年以上と言われ、銀杏の枝先はつらら状に垂れるという珍しい形をしており国の天然記念物に指定されています。

 

「江戸砂子」には乳の出が悪い母親が、このいちょうの樹皮で治療すると乳の出が良くなると聞き、皮を剥ぐ者が後を絶たなかったので、周囲に垣根を作って禁止したそうです。

 


11.善福寺「福沢諭吉 妻錦 墓」

 

福沢諭吉は明治34(1901)年2月3日に脳出血で死去、享年68歳。

葬儀は、福沢家の菩提寺 麻布十番の善福寺(浄土真宗本願寺派)で行われましたが、埋葬は品川区上大崎にある常光寺にされたそうです。

 

それは生前の諭吉が散歩の際、常光寺周辺の眺望が良かったことから「死んだらここに」と墓地を手に入れていたからです。

 

福沢家の宗旨は浄土真宗でしたが、埋葬された寺は浄土宗。

 

遺族は将来の面倒を考え、本来の菩提寺である善福寺への「改葬」を決断し、1977年5月にいよいよ諭吉の墓が掘り返されることに。

まず2m掘ったところで、「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた石が発見され、さらに地下3mの地点で、錦(きん)夫人の遺骨が出てきました。

そして、ついに地下4mの地点で諭吉の棺が見え開けてみると、中は冷たい伏流水で満たされ、着物を着た諭吉が「寝ていた」という。

 

当時の関係者によると、諭吉の遺体には大量のお茶の葉がまとわりついており、ご遺体が抗菌作用のある茶の葉と、冷たい伏流水に浸かった状態だったため、奇跡的に生身のまま残ったようです。

 

親族は対応に苦慮し、大学関係者とも相談した結果、結局、遺族の意向を尊重し、諭吉は荼毘に付され(火葬され)、予定通り、錦の遺骨や墓石とともに、善福寺に移されたそうです。

 

関係者の皆さん、本当にびっくりしたでしょうね。

 


12.天のや「玉子サンド」

 

出汁の効いた ”ふわふわ玉子焼き” をはさんだ「玉子サンド」。

前日予約していた1箱/12切れ入りを取りにいき、その場で皆さんに試食してもらい、食べ歩きの醍醐味を味わっていただきました。

 

美味しい!卵焼きが最高!

 

5人の方が後ほど取りに来るということで予約されました。

ご家族にも味わって欲しかったようです。(笑)

 

 


13.福島屋でおでんと日本酒

 

前々日の天気予報では「気温10度以下で寒く、雨も降る」、とにかく温かいおでんを食べたいと社長さんにお願いしていたので、当日のおでんは、大根、ちくわなどほっかほっか。

 

しかし、当日の天気は温かく、雨も降らず、結構良い天気で、そのため、最初はビールを飲む方も多く、まずはのどを潤してからという感じ。

そして日本酒に移ると、甘めから辛口までいろいろと試されていました。

 

関東の方は「ちくわぶ」がお好きなようでしたが、私のように関西以西の出身者は「ちくわぶ」にあまりなじみがないんですよ。

今では結構食べますが・・(笑)

 

そんな話もしながら牛すじから、追加のおでんへ。

 

最後のシメは「麻布ジューシー」。

名前を聞くと、何だろうと思いますが、特製出汁で食べる牛すじ茶漬けで、社長が開発したようです。(笑)

 

これが皆さんに食べてもらいたかった他では食べられないシメの逸品です。。 

 


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コメント: 4
  • #1

    eririn (月曜日, 13 1月 2020 22:10)

    初参加でしたが、数々の伝説はとても面白くあっという間に時間が過ぎました。歩きながら歴史の裏のお話が聞けて楽しくためになり、美味しい体験で締める!最高のひと時でした。ありがとうございます�

  • #2

    藤井 (月曜日, 13 1月 2020 22:25)

    eririnさん、先日はぶらっと麻布十番にご参加頂きありがとうございました。当日は思ったほど寒くなく、楽しんで頂けたようでよかったです。また、いろいろな企画を考えますので、ご都合の良い時に参加をお待ちしております。

  • #3

    田村真理 (火曜日, 14 1月 2020 06:45)

    久しぶりの参加でしたが、とても楽しませて頂きました。
    麻布は新しいイメージばかりが先行しますが、そんな街だからこそ歴史がとても面白かったです!
    ありがとうございました(^^)

  • #4

    藤井 (火曜日, 14 1月 2020 11:04)

    ご参加いただきありがとうございました。麻布はハイソなイメージですが、庶民的な商店街もあって私もとても好きな街です。天気もよくて、楽しんで頂けたようでよかったです。また、ご都合の良い時に参加をお待ちしています。