新年初歩き「文京区(水道橋~本郷~本駒込)」をぶらっと散歩

《新年初の街歩きは文京区(水道橋~本郷~本駒込》

 

2020年明けまして、おめでとうございます。

新年初のぶらっと散歩は文京区を歩いてみました。

八百屋お七は目黒、忠犬ハチ公は渋谷など、既に文京区以外で歩きましたが、今回はこれらの文京区に残る史跡を巡りました。

また、本年もよろしくお願いします。

 

1.東京大学 弥生キャンパス農学資料館「上野英三郎博士とハチ公」

 

秋田県大館市で生まれた秋田犬のハチ公は生後間もなく、東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に贈られました。

 

上野博士は精一杯このハチ公を可愛がり、当時、駒場にあった農学部への通勤や出張の際は渋谷駅まで送り迎えをさせたそうです。

当時は飼い犬でもつないでなかったのですね、自由に犬が街を歩いていたようです。

 

学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んでいました。

 

上野博士とハチ公の楽しい時間はそんなに長くはありませんでした。 

1年半後、大正14(1925)年5月21日、博士は大学構内で急死してしまいます。

 

それから、ハチ公は死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の帰りを待っていました。

 

生前、博士が長期出張から帰ってきたとき、渋谷駅の改札口で待っていたハチ公が博士に飛びついて、じゃれ合っている様子がこの銅像です。  

 


2.本郷給水所公苑

 

神田上水は井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の流れを合わせ、目白台下に設けた堰で流れを分けて、水戸藩邸を通って神田川を懸樋(かけひ)で渡り、江戸の飲み水に利用された水道です。

 

平成23年、旧文京区立第五中学校(現文京総合福祉センター)で、神田上水の時代の異なる二筋の流路跡が発見されました。

この石積みは神田上水の白掘(上水道を引いた掘)の護岸に使われていたものです。

 

左側の方が時代が古く、江戸時代(19世紀前)、右側は幕末から明治頃に構築されたものと考えられています。

 


3.本妙寺跡と明暦の大火

 

本妙寺(現豊島区巣鴨)は寛永13(1636)年頃、この地に移ってきました。

境内には北町奉行 ”遠山の金さん” こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作などの墓所がありました。

 

この寺が有名になったのは、明暦3(1657)年の大火 "振袖火事" の火元とされているからですが、どうもその原因には諸説あるようです。

 


4.東京大学農学資料館

 

私は東大には何度か来ましたが(東大生ではありませんが・・・)、知りませんでした。

農学部正門を入ってすぐにある農学資料館には、あの「忠犬ハチ公」の内臓が展示してあるのです。

 

さすが、東大。ハチ公の死因を突き止めていました。

典型的なフィラリア症の所見だそうです。

 

ハチ公は昭和10(1935)年3月8日に亡くなりましたが、死体解剖の結果、心臓にフィラリアが寄生しており、この他、腹水の貯留、肝線維症、肺水腫などが観察されました。

 

(1)上野英三郎博士の像

上野博士は明治33(1900)年に農学部第二講座分担を開始し、明治44(1911)年に農業工学講座の特任教授に就任、大正14(1925)年まで教鞭をとりました。

また、忠犬ハチ公の飼い主で、生前は本当に可愛がっていたようです。

だから、ハチ公は上野博士のことが大好きで、亡くなった後も渋谷駅で帰りを待っていたのでしょう。

 

(2)ハチ公臓器(肝臓)

(3)ハチ公臓器(心臓と肺)

(4)ハチ公臓器(脾臓)

  

 


5.高崎屋(森川宿跡)(追分一里塚跡)

 

ここは日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった場所です。

(分かれ道にあったので、追分一里塚とも呼ばれていたようです)

 

こちらの高崎屋さんは江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね、「現金安売り」で繁盛していました。 

  


6.大円寺

 

大円寺は、曹洞宗の寺で、神田柳原に慶長2(1597)年創建、慶安2(1649)年、当地へ移転したと伝わります。

 

(高島秋帆墓)幕末の砲術家

秋帆は寛政10(1798)年、長崎町年寄、高島四郎兵衛茂妃の三男として長崎に生まれ、文政6(1823)年、シーボレトと共に来日したオランダ商館長スチュルレルから西洋砲術について学びました。

 

天保12(1841)年、老中水野忠邦の命で、江戸郊外徳丸ケ原(現板橋区高島平)で、西洋式砲術訓練を行い、その訓練に参加した者は、秋帆以下百名、見物には諸大名はじめ、数千名が徳丸ケ原をうめ、日本で最初の西洋式訓練は、実戦さながらの迫力で、秋帆の名を全国に高めたと伝わります。

 

(ほうろく地蔵)

八百やお七にちなむ地蔵尊。

天和2(1682)年に起きた天和の大火後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火炙りの刑を受けたお七を供養するために建立されました。

 

寺の由来書によると、お七の罪を救うため、熱したほうらく(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら熱の苦しみを受けたお地蔵様と言われています。

その後、このお地蔵様は頭痛、眼病、耳・鼻の病気など首から上の病気を治す霊験があるとして有名になったそうです。

 


7.円乗寺

 

天正9(1581)年、本郷に密蔵院として創建され、元和6(1620)年、円乗寺と寺号を改め、寛永8年、当地へ移転したと伝わります。

 

(八百屋於七之墓)

三基の墓石のうち、中央は寺の住職が供養のため建てたもの。

右側は寛政年間(1789~1801)に岩井半四郎がお七を演じ、好評だったので建立したと伝わります。

左側は近所の有志で270回忌の供養で建立したもの。 

 

しかし、いくら恋しい人に会いたいからと言って、自ら火つけするでしょうか・・

違う方法があったと思うのですが。。。

 


8.吉祥寺「お七 吉三郎比翼塚」「榎本武揚の墓」「経蔵(きょうぞう)」

 

太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まり。

徳川家康時代に水道橋近く(現在の都立工芸高校一帯)へ移り、明暦3(1657)年の明暦の大火で焼失し現在地に移転。

 

寺堂は東京大空襲で焼失しましたが、山門(1802年建造)と経蔵(1804年建造)がわずかに残っています。

 

山門に掲げられた扁額の「旃檀林(せんだんりん)」とは、仏教で“学校”という意味。

こちらには、千余名の学僧が学んだ養成機関がありました。現在の「駒沢大学」の前身。

 

 

(武蔵野市吉祥寺と本駒込吉祥寺の関係)

 

1.かつて水道橋近くにあった吉祥寺の門前町は明暦3(1657)年の明暦の大火で焼失したため、住民たちは幕府の斡旋で現在の武蔵野市を開墾して「吉祥寺村」と名付けて移住しました。

 

2.大正12(1923)年の関東大震災で東京が被災し、多くの人が住む場所を失ったので、その人たちが現在の武蔵野市吉祥寺に移住しました。

 

(お七 吉三郎比翼塚)

八百屋お七の伝説では、お七が恋したのは「駒込吉祥寺の寺小姓」という説もあります。(諸説あり)

せめて死後は二人の思いが成就するようにと建てられた供養碑。

 

(榎本武揚の墓)

明治2(1869)年、函館において旧幕府軍の敗戦が濃厚となったとき、新政府軍からの降伏勧告に対し、榎本は拒否の回答状と共にオランダ留学時代から肌身離さず携えていた「海律全書」が戦火で失われるのを避けるため、新政府軍海軍参謀に贈ったと言われています。

 

これに対し新政府軍は海軍参謀の名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒と肴を送ったそうです。

 

こんな榎本だから維新後、明治新政府から乞われて出仕したのでしょう。 

 

(経蔵)

経蔵は、図書収蔵庫で、貞享3(1686)年に建造されましたが、安永7(1778)年に焼失、その焼け残った礎石をもとに、文化元(1804)年、再建。その後、昭和8(1933)年に大修復が行われ、現在に至っています。