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ぶらっと内藤新宿「四谷~新宿」を巡る

1.新宿歴史博物館「内藤新宿」

 

慶長9(1604)年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、街道沿いに宿場が整備されました。

甲州街道最初の宿場は、慶長7(1602)年に設けられた高井戸宿でしたが、日本橋から約4里(約16km)と遠かったので不便でした。

このため、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大変でした。

 

元禄10(1697)年、幕府に対し、浅草の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出ました。

 

翌年6月、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可。

日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなりました。

 

宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などがあてられ、元禄12(1699)年に内藤新宿が開設されます。

宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来します。

 

内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に区分されていました。

 

宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めました。

 


2.消防博物館

江戸時代に始まった消防が、明治以降の機械化・組織の近代化によって大きく変化していく様子を詳しく紹介している博物館。

中でも、江戸時代の「武家の火消」と「町方の火消」の誕生や、その後の歴史がとても興味深いです。 

 

(江戸時代の消火)

当時は「破壊消火」といわれる消火方法。

破壊道具としては、天井や屋根を壊す「鳶口」や、家の柱を倒すときに使う「大刺又」が使われました。

展示されているジオラマからは、破壊消火の様子がわかりやすく伝わってきます。

 

江戸っ子たちは、「火事と喧嘩は江戸の華」と言って、火事には慣れていたようですね。

 


水道碑記(すいどうのいしぶみのき)
水道碑記(すいどうのいしぶみのき)

3.新宿御苑「内藤新宿分水散歩道」

 

承応3(1654)年に開設された玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの約43kmの区間を、土を掘り抜いただけの開渠で造られていました。


四谷大木戸から江戸市中へは、石や木で造られた水道管を通じて、水が供給され、淀橋浄水場が完成した明治34(1901)年ころまで、玉川上水は、江戸・東京の人々の貴重な水源でした。

新宿では、四谷大木戸の水番屋が水質・水量、異物の監視等を行い、厳重に管理していました。 

 

写真は玉川上水の流れを「まちの記憶」として残すため、新宿御苑内に玉川上水・内藤新宿分水散歩道として整備されたものです。

現在でも水が流れていて、そのせせらぎを感じながら散歩できます。

 

「水道碑記」

四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター近くにあったので、これを記念して、明治28(1895)年に石碑が建てられました。

その篆額は徳川家達が書いており、碑文には玉川上水建築の理由や工事を請け負った玉川兄弟の功績を称えた内容が書かれています。

 


4.於岩稲荷田宮神社

 

於岩稲荷と呼ばれ、四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社。

 

初代田宮又左衛門の娘お岩〔寛永13(1636)年没〕が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として人々の信仰を集めたようです。

 

お岩さんの死から約200年後、鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8(1825)年に初演されると、さらに信仰を集めます。

しかし、実際のお岩夫婦は戯曲とは全く異なり、円満だったようです。

 

稲荷社は明治12(1879)年、火事で焼失し、その際、市川左団次の勧めで、中央区新川に移転します。

 

その後も田宮家の住居として管理されて、戦後の昭和27(1952)年に四谷の旧地にも神社を再建し、現在に至っています。

 

 


5.陽運寺

 

前述の「於岩稲荷田宮神社」の真向かいにある昭和初期に創建された日蓮宗の寺院。

 

境内には、昭和32年に新宿区より文化財に指定された「お岩様ゆかりの井戸」があり、また「お岩様縁の祠」があったと伝えられます。

 

元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽運寺の成り立ちのようです。

 

於岩稲荷田宮神社と違い、境内はかなりきれいに整備されており、写真の寺務所などカフェと見間違えるようです。

 

 


6.荒木町「高須松平藩四兄弟」

 

高須松平家は、尾張徳川家の分家で支藩、尾張徳川本家に嗣子がない場合は当主として養子を出す家柄で、十代当主義建(よしたつ)の次男 慶勝は本家尾張徳川家を継いで十四代当主となります。

五男 茂德(もちなが)は高須家十一代を継ぎ、慶勝が隠居処分にされた後、尾張十五代当主、さらにその後、慶喜の跡を継いで一橋家十代当主となりました。

七男 容保は会津松平家の養子になり、九男 定敬(さだあき)は桑名松平家へ養子に入ります。

 

幕末、慶勝は旧幕府側と討幕派の間で揺れ動きつつ、薩長と共に新政府を作る決断をします。

一方、容保と定敬は最後まで旧幕府軍として戦いました。

 

幕末維新の激動の中で生きた四人はここ四谷荒木町で生まれ、片や明治新政府側、片や「朝敵」の汚名を着て旧幕府側として、敵味方に分かれました。

 

その四人が明治11年、一堂に会して、銀座の写真館で撮影した写真です。

写真には、四人のこれまで生き様が刻み込まれていて、歴史の重みが感じられます。

 

とんかつ屋さんの前には松平容保と松平家上屋敷に使われていた「菊輪葵紋瓦」が・・・今でも荒木町に愛されているのですね。

 

 


7.津の守弁財天

 

江戸時代、このあたり一帯に松平摂津守の屋敷があり、邸内に滝があり、摂津守の一字を略して「津の守の滝」と呼びました。

また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があり、滝壺の池を「策の池」と呼びました。

 

策の池…『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時、近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ4mの滝となり、この池に注いでいたので策の池と呼ばれ、「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。

 

この池の主「すっぽんのアラちゃん」です。

 


8.花園神社

 

徳川家康が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされ、新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。

 

寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったので、幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。

 

その場所は、徳川御三家筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。

この美しい花園の跡に移転したので、花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。

 

しかし、「花園」という名称が正式なものになるのはずっと後のこと、稲荷神社または三光院稲荷とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていたようです。

 

明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。

これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。

 

大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し、社号の改名願を提出したところ、同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となったのです。


さらに昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に合祀したことから、ようやく「花園神社」が正式名称となりました。

 


9.たい焼き「わかば」

 

創業は昭和28年。

東京3大たい焼きのお店として知られています。 

製法は一匹ごとに型で焼かれる「天然もの」、皮がパリっとして香ばしいのが特徴です。

一度に大量に作られる「養殖もの」たい焼きは、反対にやや厚手のふんわりとした生地です。                 薄皮のなかにはたっぷりの粒あんが詰め込まれ、ずっしりと重みがあります。                          こちらでは「あんこ」だけでも購入できます。                                    あんこにも相当自信があるようです。