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幕末維新ディープ散歩『 龍馬・晋作が生きた街(品川) 』

《幕末維新の痕跡を巡るディープ散歩》

 

品川周辺で幕末を感じられる場所を巡りました。

 

1.立会川 北浜川児童遊園「坂本龍馬像」

 

 ペリー艦隊が来航した嘉永6(1853)年、ここ立会川には、土佐藩品川下屋敷があり、その近くに土佐藩が幕府に願を提出し許可を受けて、翌年造った浜川砲台がありました。

 

その頃、龍馬は藩から許可を得て、江戸で剣術修行中でした。

 

土佐藩はこの下屋敷警護のため、江戸詰めの武士を動員してあたらせました。

その中に19歳だった龍馬もいて、当時父親へ宛てた手紙には『…異国船所々に来たり候へば、いくさも近き内と存じ奉り候、その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候』と、この当時の龍馬はまだ単純な攘夷に燃える青年でした。

 

北浜川児童遊園に建てられた2番目のこの龍馬像は、当時、立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現しており、履物もブーツではなく草履を履いています。

 

また、この像には、高知県桂浜の像が平成11年修復されたときの金属片が溶かし込んであるそうです。

 

   


2.品川神社 境外「板垣退助墓」

 

板垣退助の墓は、元は東海寺塔頭だった高源院(こうげんいん)の墓地にありましたが、関東大震災のあと、高源院が世田谷区に移転した時に、墓だけがここに残りました。

墓の傍らに、遊説中に刺客に襲われた際に言ったと伝えられている「板垣死すとも自由は死せず」と刻まれた石碑が建っています。(これはかつて総理大臣だった佐藤栄作の筆による)

 

板垣は、明治7年、日本で最初の政党である愛国公党を結成。

日本に国会の開設を促し、自由民権運動の父と呼ばれる政治家です。

自由党の初代総裁を務め、晩年は、社会事業にも尽くしました。

 

品川神社の鳥居に他ではちょっと見られないような(龍?)がありました。 

 

 


3.高杉晋作、伊藤博文他が焼き討ちしたイギリス公使館跡

 

東禅寺イギリス公使館が二度も襲撃されたことにより、欧米の駐日公使たちは、幕府に安全に居住できる場所を求め、その結果、品川御殿山が用地に選ばれました。 

海に面したイギリス公使館はベランダ付の豪華な洋館で、設計はイギリス、建築費用は幕府が支払うことになっていて、ほぼ完成を見たのは文久2(1862)年12月のことでした。

 

12月12日夜中、高杉晋作、伊藤博文らは焼き弾を持って、御殿山に向かい、イギリス公使館に火を放ち全焼させました。

 

しかし、この事件の犯人は逮捕されることはありませんでした。

その理由は、孝明天皇がこの御殿山を公使館用地として使用されることに、反対されており、困った幕府は公使側に変更を求めましたが、拒否され、朝廷と公使側の間で困っていたためです。

 

そんなとき、この焼き討ち事件が起こりました。

公使側は恐怖のため、二度と御殿山を使用したいとは言わなかったため、真相はうやむやになったようです。

 

ちなみに、この焼き討ち事件の犯人が知れわたったのは、明治新政府の高官になった伊藤博文や井上馨が若き日の武勇伝として自慢したからだそうです。

 

おいおい、いくらなんでも、そのようなテロを行った者が初代総理大臣とは・・・(笑)

 

この場所の下を覗くと石垣のようなものが見えました、当時の名残でしょうか?

 

残念ながら、この地に「イギリス公使館焼き討ち事件跡」のような看板は見当たりませんでした。

 

この向かいはお台場の土取り場跡でもあります。

 


4.土蔵相模跡

 

江戸時代、品川宿は東海道一番目の宿場で、旅籠が並び大変繁盛していました。

高杉たちがイギリス公使館襲撃前日、ここ酒楼相模屋(通称 土蔵相模)で、密議をしました。

 

また、こちらは桜田門外の変の決行前夜、水戸浪士たちが別れの盃をかわした場所でもあります。

 

どうやら、こちらは何かをやる前日、盃をかわす場所であったようです(笑)

 

 


5.御殿山下砲台跡

 

嘉永6(1853)年、米国のペリーが浦賀に現れました。

これに対し、幕府は江戸防衛のため、11の台場を造ることにし、伊豆韮山の代官 江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに、その指導にあたり、第一から第三台場、第五、第六台場を完成させます。

しかし、第四、第七台場は途中で中止、第八以降は造られることはありませんでした。

 

その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになり、これが「御殿山下砲台」です。

 

明治になって埋め立てられましたが、今でも道としてその形は残っています。

 

 


6.東海寺「井上勝墓」

 

井上勝は「鉄道の父」と呼ばれ、萩藩士の三男として生まれました。

15才から長崎、江戸で学び、文久3(1863)年、井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学びました。

それから、日本の鉄道建設に最初から関わり、明治4(1871)年には初代鉄道頭となり、明治5(1872)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させました。

その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げました。

外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大です。

 

生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向だったからと伝えられています。

 

島倉千代子墓

井上勝 墓の近くに、きれいな花で埋め尽くされた歌手の島倉千代子の墓がありました。

今でもファンだった方が、お参りに訪れているようです。 

 

 


7.海蔵寺「無縁塔群(首塚)」

 

山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川にあった牢屋で亡くなった人たちの遺品を集めて、宝永5(1708)年に築かれました。

鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され「首塚」と呼ばれました。

 

また、この塚にお参りすると頭痛が治るということから、古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。

 

この塚には天保の大飢饉(1833~39)でなくなった250人を祀る「二百十五塚」も合葬されています。

 

このほか、慶応元(1865)年に建立された「津波溺死者供養塔」や大正4(1915)年「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあり、いずれも引取り手のない死者や不慮の死をとげた者を供養してきたため、ここ海蔵寺は「投込寺」と呼ばれました。

 

   


8.江戸幕府御用宿「釜屋跡」

 

釜屋は南品川にあった建場茶屋(旅人がお茶や食事をして休息する場所)のひとつで、東海道を行き来する旅人たちはここで休息したり、見送りや出迎えの人達と宴会を開いたりしました。

大変繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築し「本陣」と呼ばれることもあったようです。 

 

幕末の頃、慶応3(1867)年には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。

永井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊隊長他、旗本達が数多く利用しました。

 

新撰組副長土方歳三 も、隊志を連れて慶応3年10月21日に休息しています。

また、慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦い に敗れた新撰組隊志たちは、同月15日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。

 

  


9.海晏寺(かいあんじ)岩倉具視墓

 

旧東海道からの参道入り口に、太政大臣岩倉公御墓参拝道「海晏寺」という石碑が建っています。

 

さて、海晏寺に来てみると、残念ながら岩倉具視の墓は見ることが出来ない場所にありました。

 

あとで調べてみると、 松平春嶽、由利公正の墓もあるのだとか。

 

   


10.山内容堂墓

 

土佐藩十五代藩主 山内容堂の墓です。

この地はかつて鯖江藩主間部下総守の下屋敷があったことから、下総山と呼ばれていました。

 

山内豊信は福井の松平慶永、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城と並び「幕末四賢侯」といわれ、明治維新の先駆者として土佐藩の藩政刷新に努め、幕政にも大きな影響を与えました。

 

46歳で急逝、遺言により晩年愛したこの地に葬られました。

脇の「島津常侯墓」は島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓、他に16代豊範夫人の墓、山内家合祀の墓があります。

 

   


11.新浜川公園「浜川砲台の大砲」

 

旧東海道浜川橋より海沿いの地域は、江戸時代、土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所です。
1853・54年の黒船来航に際し、防衛のため、土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。

 

新浜川公園に2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」は、この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものです。

 

龍馬も江戸で剣術修行のとき、土佐藩に命じられて、この地で警備にあたっていました。  

   

 


12.浜川橋(涙橋)

 

立会川が海に注ぐこの辺りの地名「浜川」から名付けられました。

現在の橋は昭和9(1934)年に架け替えられたものとあります。

 

慶安4(1651)年に、この先に「お仕置場(鈴ヶ森刑場)」が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されましたが、この時、親族らが密かに見送りに来て、この橋で共に(涙)を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになった、とあります。  

 

「泪橋」といえば、南千住の小塚原刑場の近くにもありました。

 

   


「火炙台」この上に鉄柱が立っていて、これに罪人は縛られ、生きたまま焼き殺された
「火炙台」この上に鉄柱が立っていて、これに罪人は縛られ、生きたまま焼き殺された
「磔台」この上に立っていた木製の柱に罪人は縛られ刺殺された
「磔台」この上に立っていた木製の柱に罪人は縛られ刺殺された
「首洗いの井」処刑者の首はこの井戸で洗われ、さらし首にされた
「首洗いの井」処刑者の首はこの井戸で洗われ、さらし首にされた

13.鈴ヶ森刑場遺蹟

 

元々、江戸幕府成立後、刑場は北の浅草、南の芝の二か所に設けられていました。

その後50年近く経つと人口も増え、刑場の近くまで人家が立ち並ぶようになったので、中心部から遠ざけることになり、浅草は千住に移され「小塚原」、芝から移されたのが「鈴ヶ森」となりました。

 

当時の鈴ヶ森刑場は目の前に海岸線が開けていました。

また、このあたりは一本の松にちなんで「一本松」と呼ばれていましたが、大井村の隣の不入斗(いりやまず)村に鈴ヶ森八幡があったことから、「鈴ヶ森」と呼ばれるようになりました。

 

3mほどの御影石に深く刻まれた「南無妙法蓮華経」の文字、これが題目供養塔です。

 

明治4(1871)年に、この刑場が廃止されるまで多くの人がここで処刑されてきました。

それらの処刑に使われた「火炙台」「磔台」「首洗いの井」が当時の姿のまま残されています。

 

こちらに隣接する大経寺には、ここに掲載できないようなさらにディープな写真もあります。。。