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小生の故郷 広島県福山市鞆の浦
に久しぶりに行った
1.常夜燈
鞆の浦のランドマーク
船の出入りを誘導する燈台
現存する江戸期の常夜燈では
日本最大級の高さを誇る
海の香りが心地よい
2.いろは丸展示館(1)
江戸時代の2階建ての土蔵を
そのまま利用したもの
鞆の沖合の海底(27m)から
引き揚げられた遺物や沈没状況の
パノラマなどがあり
いろは丸事件の詳細が分かる
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=472x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i6c0dade5ea851b59/version/1497011926/image.jpg)
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3.いろは丸展示館(2)
昭和63(1988)年福山市の沖で
「いろは丸」と思われる沈没船が
見つかった
これをもとに、
京都水中考古学研究所が
3度の調査を行い、
船体を確認した
4.いろは丸展示館(3)
引き揚げられた滑車、陶磁器、革靴などから
これは「いろは丸」である可能性が高いと
判断された
革靴と言えば、坂本龍馬
もしかして、龍馬が履いていた革靴?
外国人に合ったサイズだからか、
結構大きいなぁ
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![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=489x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i0c62a067ffdf3eb8/version/1497013089/image.jpg)
5.いろは丸展示館(4)
さらに平成17(2005)年、
日本テレビの協力で4回目の調査が実施された
船体に外輪の跡がないので
スクリュー船であると推測し、
ボイラー室や高級船室などが確認された
数々の引き揚げ品と共に
いろは丸の可能性が重ねて検証された
龍馬の息遣いが感じられるようだ
6.いろは丸展示館(5)
龍馬と海援隊が宿泊した
升屋清右衛門宅の天井裏にあった
隠れ部屋を再現したもの
龍馬の等身大のフィギュアがある
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![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=480x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i6f193b471edab8cb/version/1497015559/image.jpg)
7.坂本龍馬宿泊跡(升屋清右衛門宅)(1)
いろは丸事件後、
坂本龍馬たちが鞆の浦に上陸し、
宿舎にした場所
8.坂本龍馬宿泊跡(升屋清右衛門宅)(2)
龍馬は2階の隠し部屋に
寝泊まりしたと伝えられる
暗殺の危機が龍馬に迫っていたが、
決死の覚悟で談判に臨んだことが分かる
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=484x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i0b15d398dd06a5b1/version/1497015759/image.jpg)
![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=480x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i40249a352fbe98e0/version/1497015980/image.jpg)
9.龍馬談判の町屋(旧魚屋萬蔵宅)
いろは丸事件の交渉はまず、
魚屋萬蔵宅で行われた
龍馬たちの宿舎と紀州藩の宿舎の
ちょうど中間にあることから選ばれたらしい
現在は江戸時代の町屋のたたずまいを
残した宿泊施設になっている
10.圓福寺
いろは丸事件の時、
紀州藩の宿舎として利用された
鞆城が築かれた時、
大可島が陸続きとなり、
そのときに当寺は建立された
朝鮮通信使の宿舎をはじめ、
句会や歌会の舞台となった
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11.福禅寺 對潮楼
鞆での最後の談判が行われた場所
江戸時代、朝鮮通信使が
「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい)」
と讃えた格式の高い寺
それまでの交渉では、
龍馬は変名「才谷梅太郎」としていたが、
ここでは海援隊「坂本龍馬」という名札を
渡して臨んだ
12.いろは丸事件とは
慶応3(1867)年4月19日、龍馬は海援隊として大洲藩からチャーターした「いろは丸」で長崎を出航し、大坂を目指して瀬戸内海を航行していた。4月23日午後11時頃、備中六島沖で突然現れた紀州藩「明光丸」を見て、いろは丸は左に舵をとった。一方明光丸は遅れて右に舵をとった後、さらに左へと舵を戻して、いろは丸に衝突した。明光丸はいったん離れた後、再び前進していろは丸に二度目の衝突をしてしまう。いろは丸の損傷が激しいため、龍馬をはじめ、いろは丸乗組員34名は明光丸に乗り移った。いろは丸は45馬力160トン、これに対し、明光丸は150馬力887トンとはるかに大きく、そのため、いろは丸は二度の衝突で自力では航行できなくなり、ロープで引かれて鞆の浦を目指した。しかし、午前4時頃、宇治島あたりでいろは丸はついに沈没した。紀州藩の意見で鞆の浦に上陸し、4日間、事件の解決をめぐって激しい談判がここで繰り広げられた。
鞆の浦での4日間の交渉の結果、決裂し、紀州藩は長崎で交渉することを一方的に告げて、明光丸を出航させる。その後、龍馬も長崎に行き、「万国公法」を持ち出すなど、戦略的な交渉をして、ついに紀州藩が賠償金を支払うことを約束させて事件は解決した。
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