「待乳山聖天(1)」
浅草駅から江戸通りを10分ほど歩くと待乳山聖天がある
正式には「待乳山本龍院」
聖天とは歓喜天のこと、歓喜天は密教の神で、
これに祈ると夫婦和合や良縁にご利益があるらしい
「待乳山聖天(2)」
境内を歩くと、大根や巾着の石碑がある
本堂内にもたくさんの大根がお供えされている
大根というのは人間の迷いや怒りの毒を表し
これを供えることで、聖天が清めてくれるらしい
巾着は財宝を表し、商売繁盛にご利益があるようだ
「待乳山聖天(3)」
「さくらレール」という短いケーブルカーがある
こちらは小高い山の上にあるので
足腰の弱い人向けに作られたものと思われる
駐車場から本堂までの所要時間は約30秒
何とも、のんびりした光景である
「今戸神社(1)」
新選組 沖田総司の終焉の地とある
(総司が没した地としては千駄ヶ谷と言う説もある)
医学所頭取の松本良順が今戸八幡宮宮司の屋敷に引っ越した時
総司もここに移って、そのまま亡くなった
(総司の最期)
療養していた総司は障子を開けておくと、
どこからともなく黒猫がやってきた
総司は看護の老婆を呼び、愛刀「菊一文字」を取らせ
杖にして立ち上がると、黒猫をじっと見つめていたが、
しばらくすると崩れ落ちた
そして「婆さん、俺にはあの黒猫を斬れないよ」と呻いて
昏倒してしまった
それから数日後、総司は逝った(享年27歳)
「今戸神社(2)」
本殿に招き猫が鎮座
この招き猫は今戸神社の近くに住む老婆が、
幕末に片手をあげた猫人形を作って売り出すと人気を博し
全国に広がったらしい
そんなことからここ今戸神社は「招き猫発祥の地」を自称する
またこの招き猫は縁結びにもよく効くらしく
若い女性の参拝者も多かった
そういえば、「豪徳寺」にも招き猫がいっぱいいて
発祥の地と称していたが、どっちが本家だろうか?
さて、これから少しずつディープな場所へ入っていく
「山谷掘公園」
かつて、ここは吉原通いの人々が行き交う土手だった
今は暗渠となり、公園として整備された
「見返り柳」
山谷掘を20分ほど歩くと
「吉原大門」と表示された信号がある
その左に柳の木が立っている
これが当時、吉原の遊び客におなじみだった「見返り柳」だ
(実際は江戸時代のものではなく、何代目からしい)
遊び帰りの客がこの辺りで吉原を振り返ったので「見返り柳」
「吉原大門」
見返り柳の場所からしばらく歩くと
道が「くの字」に曲がっている
これは外の街道から「吉原」を隠すため、
このように道を、あえて曲げたらしい
さてここが吉原に入る入口
さあ、江戸の花街へ
「吉原神社」
かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に
隣接する吉原弁財天を合祀した神社
吉原遊郭は元和3(1617)年、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が
江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)
(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことに始まる
この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、
転じて「吉原」と命名された
しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため
明暦3(1655)年に現在地である千束村へ移転となった
以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、
移転後の吉原を「新吉原」と呼ぶ
「吉原弁財天本宮」
関東大震災によって亡くなった遊女及び関係者を慰霊すべく、
1926(大正15)年に建立された
吉原遊郭の悲劇を今に残すものである
観音像の奥に行くと、吉原弁財天がある
ここは遊郭関係者の信仰を集め、弁天池の名前の由来となった
弁天祠が鎮座している
「吉原弁財天の御朱印」
目の前であっと言う間に書いていただいた
へびのようなものは「よしわら」と書いてあるそうだ
コメントをお書きください