1.寅さんの像
『男はつらいよ』シリーズを何度見ただろうか?
日本各地の風景、鉄道、人と人との人情
どれを見ても”ほっとする”気持ちになれる
テキヤ稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、
何かの拍子に故郷の柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす
お決まりのコースで、ハッピーエンドにならないところも面白い
ちゃぶ台とか出てきて、日本人が昭和の香りを思い出せる
最近、この昭和の香りに惹かれるようになった、歳のせいかな。。
この像の左足に触れると、ご利益があると言われているため、
みんながさわり、いまでは金色に光るようになったらしい
2.妹 さくらの像
寅次郎とは腹違いになる
性格と容姿は寅次郎とは似ても似つかない(笑)
幼い頃、父が戦争に行っている間、
戦火の中で、寅次郎がさくらを守った
そして寅次郎は父と喧嘩して、16歳の時に家を出る
その時、さくらは最後まで引き止める
間もなく両親と残された秀才の兄を亡くしたさくらは
叔父の竜造夫婦に育てられる
20年後、たった一人の異母兄の寅次郎と再会する
そこから「男はつらいよ」が始まる
寅次郎の一番の理解者であるさくらは、毎度ドタバタを
起こす兄に冷や汗をかきながらも、いつか寅次郎が
カタギの生活に戻ってくれることを祈っている
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![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=447x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i9256c8f812ff1c5f/version/1490852105/image.jpg)
さくらの像の台座に書かれている「ある別れ」
いつもように、問題を起こして、マドンナにふられて
寅次郎が柴又を去るときのワンシーン
兄妹っていうのはこんな感じなのかな
小生には妹はいないので、よく分からない
でも姉がいる
いつもいろんな場面で応援してくれているような気がする
3.映画の碑
「男はつらいよ」の監督 山田洋次の自筆が刻まれた碑
日本人なら一度は聞いたことがある寅さんの有名なセリフ
『私 生まれも育ちも
葛飾柴又です
帝釈天で産湯をつかい
姓は車 名は寅次郎
人呼んで
フーテンの寅と発します』
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![](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=447x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/i3dd618abe0596fda/version/1490852973/image.jpg)
4.寅さん記念館
入口には、館名の看板文字の取り付け作業をする寅さんの背中が!
漢字が読めないものだから、文字の上下が分からず四苦八苦
地面には、うっかり落とした雪駄が転がっている
実はこの雪駄が落ちているのは右足分
左足分は落ちていない(落ちない→試験に受かる、ご利益がある?)
ということで、
柴又駅前の寅さん像の左足をさわると
願いが叶うということになったらしい
5.人車鉄道
寅さん記念館内に「人車鉄道」の展示コーナーがある
金町駅が開業し、柴又帝釈天への参詣者が増加
そこで、利便性向上のため、明治32(1899)年、
「帝釈人車鉄道」が柴又 - 金町間で営業を開始
(人が車両を押して動かす人車鉄道)
明治42(1909)年、京成電気軌道(現在の京成電鉄)設立
人車鉄道は明治45(1912)年に軌道特許を京成電気軌道へ譲渡し
翌大正2(1913)年には柴又 - 金町間の人車の運行を終了
人力車ならぬ人車鉄道はその他全国にもいくつかあったらしい
![寅さん記念館「人車鉄道」](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=497x10000:format=jpg/path/s33158117680f1e3d/image/ib2d2392b2e7bcbe6/version/1490854717/image.jpg)
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