ぶらっと豊洲「鉄道跡地を巡る昭和ノスタルジー」

[豊洲の歴史]

 

豊洲の埋立ては大正後期から昭和前期にかけて、「関東大震災」の瓦礫の処理も兼ねて行われました。

当初は「五号地」と呼ばれていましたが、昭和12(1937)年に、将来の発展を願い、豊かな土地になるように「豊洲」と命名されました。

 

昭和14(1939)年に「東京石川島造船所」の新工場が建設され、戦時中は軍の施設として利用され、戦後になると豊洲沖に新たな埠頭が造られ、エネルギー基地として戦後復興期・高度経済成長期の東京の経済を支えました。

 

現在はその役目を終え、再開発により、多くのタワーマンションが建ち、かつて東京ガスの施設があった場所には築地市場の代替施設として、何度かの延期を経て豊洲市場が2018年10月に開場しました。

 

[東京都港湾局専用線]

大戦後に豊洲埠頭の工事が再開すると、昭和28(1953)年には越中島駅から豊洲石炭埠頭の区間を走る貨物鉄道「深川線」が開通、

1955年には深川線から分岐した「豊洲物揚場線(とよすものあげばせん)」も開通。

そして、1957年には深川線から分岐して晴海埠頭を結ぶ「晴海線」が開通しました。

 

石炭やコークス、鋼材、鉄鉱石などを運搬する貨物需要の拡大に対応し、ピーク時の昭和42(1967)年に運行した貨物列車は深川線・晴海線の合計で1日22往復もあったそうです。

 

 

1.「晴海橋梁(旧晴海鉄道橋)」 

モータリゼーションによって鉄道輸送からトラック輸送へと変化し、エネルギー革命の進展でガス輸送は減少。

専用線の需要はみるみる減っていき、昭和52(1977)年の東京ガス専用線の廃止から次々と東京都の専用線は姿を消していきます。

昭和61(1986)年に深川線の大部分が廃止し、最後には晴海線が平成元(1989)年2月10日に廃線となりました。

 

晴海橋梁は晴海線の通っていた橋梁で、豊洲と晴海を結ぶ春海橋に並行して走っていた鉄道の橋部分です。

東京湾に佇む真っ赤にさび付いた美しいフォルムのこの橋は、現在残っている東京都港湾局専用線の遺構としては最大規模のものだそうです。 

 

 


2.「東電堀」「水陸両用バスの離着水場所」 

 

かつての東京電力「新東京火力発電所」に隣接した人工の入江だった場所で、火力発電所は1号機から6号機が稼働し、都内に電力供給を行っていました。

再開発後は「豊洲ぐるり公園」の端にあり、堀の形はほぼ当時のままです。

 

実際に大型船舶が出入りしていたため十分な広さがあり、また波がほとんどないので、マリンスポーツを楽しむ場所として注目されています。

 

東電堀とお台場間を結ぶ水陸両用バスの離着水場所となるスロープがありましたが、残念ながら水陸両用バスは見ることはできませんでした。

いつか乗ってみたいですね。

 


3.「モニュメントクレーン」

 

旧石川島播磨重工業(現・IHI)の東京第一工場跡地に建設された「ららぽーと豊洲」のシーサイドデッキには、造船所時代のNo.2クレーンがモニュメントとしてそのまま残されています。

 

 


4.「豊洲今昔物語」

 

2013年8月、豊洲駅に設置された陶板レリーフ作品、東京藝術大学学長を務める宮田亮平の原画・監修、公益財団法人メトロ文化財団の協賛により設置されました。

 

274個の色彩豊かな陶板ピースによって構成され「海への思い、豊洲の現在・過去・未来」に想いを馳せて制作されました。

 

豊洲は現在、高層住宅、オフィスビルの建築が着々と進み、未来に向けて進化し続けていますが、江戸時代の頃、このあたりは豊かな海で、時折、鯨やイルカも姿を現し、江戸庶民を喜ばせたそうです。  

 


5.晴海フラッグ

 

東京2020オリンピック・パラリンピック選手村として活用された後の建物や土地を有効活用するために、計画された都市開発プロジェクト。

官民が連携して一つの巨大な街を作り、住宅・交通・商業・公園・学校・保育など、暮らしに必要なものが揃っている新しい形の街です。

 

オリンピック後はまた大きく変化しているかもしれませんね。