ぶらっと王子「渋沢栄一が愛した街」

1.飛鳥山公園「渋沢史料館」 

 

「渋沢栄一」今、NHKの大河で主人公、そして新1万円札の顔になるなど、ちょっと話題の人物。

 

渋沢は産業らしい産業がまだ育っていなかった明治期に、第一国立銀行(現・みずほ銀行)、日本初の製紙会社・抄紙会社(現・王子製紙)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、日本鉄道会社(現・JRグループ)、日本郵船会社(現・日本郵船)、東京瓦斯会社(現・東京ガス)など500を超える企業の設立に関わっており、「日本資本主義の父」と呼ばれています。

 

また、会社以外にも東京高等商業学校(現・一橋大学)や東京養育院(現・東京都健康長寿医療センター)など600もの教育機関、病院、団体などの設立・運営に携わったとされています。

 

現代では信じられないような話ですが、渋沢の生涯と事績を紹介している渋沢史料館をを見学したいと思いましたが、緊急事態宣言中は閉館とのことで、見学できず。

こちらには以前一度来たことはありますが、随分前で内容もよく覚えていないので、改めて今回再訪したかったのですが、残念です・・・

 

こちらは、かつて渋沢が住んでいた旧渋沢邸跡地に建っており、今でも残る大正期の二棟の建築「晩香蘆」「青淵文庫」と共に再度来たいと思います。 

 

 


2.洋紙発祥の地

 

明治6(1873)年、ヨーロッパを視察して帰国した渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し, この地に製紙工場を作ったことから、日本の洋紙生産は始まりました。

田圃の中, 煙を吐くレンガづくりの工場は, 当時の錦絵にも描かれ, 東京の新名所になりました。

 

抄紙会社が開業されると、この辺りには工場が次々と建設され、日本の近代化産業発祥の地となりました。

 

明治8(1875)年、洋紙工場が完成し、翌年、大蔵省印刷局抄紙部の工場が隣接地に設置され、社名を「製紙会社」に改称。

その後、明治26(1893)年には王子製紙(株)王子工場となりました。

 

その後 日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが, 昭和20(1945)年, 戦災により その歴史を閉じました。

戦後、昭和24(1949)年、占領政策により王子製紙は苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の3社に分割され、工場は十條製紙が引継ぎ、昭和47年に工場跡地に十條ボウルがオープン。

 

平成5年には日本製紙(株)となり、歴史的産業遺産として継承されています。 

 


飛鳥山碑
飛鳥山碑

3.飛鳥山公園「飛鳥山碑」

 

元文2(1737)年に建立、江戸城吹上の庭にあった石が使用されています。

 

碑文の漢文部分はいまだに定訳をみない難解さで、江戸時代には「あすか山なんとよんだかおがむ也」・「なんだせきひかと一ッもよめぬなり」などと風刺されています。

 

私も全く読み解くことはできませんが、要旨は熊野三所を勧請した王子権現および飛鳥明神の来歴と、飛鳥山への植樹と所領替えの事跡の2点だと言われています。 

 

 


4.飛鳥山公園「象山先生櫻賦の碑」

 

信濃国松代藩士だった佐久間象山は、幕末の志士に影響を与えた儒者でした。

 

この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中だったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいます。

 

この賦は象山50歳(万延元年1860)の作と云われ、文久2(1862)年には孝明天皇の宸賞(しんしょう)を賜りました。

象山は蟄居赦免となり、翌年、京に上り皇武合体開国論を主張しましたが、尊皇攘夷論者によって刺され、元治元(1864)年7月11日54歳の生涯を閉じました。

 

この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠(まさなり)の文で、書は日下部鳴鶴(くさかべめいかく)です。

明治14年11月15日と刻まれています。

 

この碑は初め、飛鳥山の西北端の頂きに建っていましたが、昭和41(1966)年に現在地に移転されました。

その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘により、象山が暗殺された際の血染めの挿袋(そうたい)を納めた石室が発見され、石室と共に移設され、現在の碑の下に埋設されています。 

 


青淵文庫
青淵文庫
晩香廬
晩香廬

5.飛鳥山公園内「青淵文庫」「晩香廬」

 

ここ飛鳥山にはかって「曖依村莊(あいいそんそう)」と呼ばれた渋沢栄一の邸宅がありました。

ほとんどは昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、2棟だけ当時の姿のまま残っています。

共に大正時代の建物で、国の重要文化財に指定されています。

 

曖依村莊の名付け親は最後の将軍徳川慶喜と言われています。

大河ドラマでも描かれているように、渋沢は慶喜の幕臣で、明治維新後も物心両面で慶喜に仕えました。

 

(青淵文庫)

渋沢栄一の傘寿(80歳)並びに男爵から子爵への昇格を祝い、当時の門下生の団体「竜門社」の会員が渋沢に贈ったと言われています。

 

渋沢の収集した論語関係の書籍の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建物で、ステンドグラスには、渋沢家の家紋「違い柏」、祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」がデザインされています。

 

 

(晩香盧) 

渋沢栄一の喜寿を記念して、合資会社清水組(現清水建設(株))四代目当主が贈り、大正6年に建てられました。

晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれています。

 

 

 


6,西ヶ原一里塚

 

日本橋から2里の位置にある日光御成道の西ヶ原一里塚。

一里塚には木を植えて、目印にして、旅人の憩いの場にもなっていました。

木は松もありましたが、榎が多かったようです。

 

一里塚築造を担当した大久保長安が徳川家康に植える木の種類を尋ねたところ、「ええ木を植えよ」と言われたのを、榎と聞き間違えたとも、長安が松の木を植えようかと尋ねたところ、「他(よ)の木を植えよ」と言われたのを榎と間違えたとも言われています。 

 

道路中央の塚と歩道側の塚との間が当時の日光街道です。

大正初期、道路が拡張される際、渋沢栄一をはじめとする旧滝野川区民は一里塚の位置を守るために、塚の南側の土地を買い上げ、これを道路地として提供し、塚の位置を動かさなかったそうです。

 

大正12(1923)年に市電敷設の際もこの道路を利用し、塚の南側を単線で挟む形で分けました(後に廃線)。

 

都内で原形のまま残っている一里塚はここだけだそうで、貴重な史跡です。

 

 


社務所
社務所
枯松を祭る文の碑
枯松を祭る文の碑
願掛公孫樹
願掛公孫樹

7.七社神社

 

明治12(1879)年、渋沢栄一は西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構え、明治34(1901)年には飛鳥山邸を本邸とし、七社神社の氏子となりました。

 

大正9(1920)年には、渋沢を筆頭とする諸氏の寄付により社務所が建築されました。

その社務所は昭和42(1967)年に建て替えられましたが、現在も渋沢揮毫の社額・掛け軸を始め、古河家等諸氏の奉納品が神社に納められています。

 

令和2(2020)年12月、渋沢造立の「祭枯松文」碑が境内に移設されました。

渋沢が、「飛鳥山別業南園」にあった松が枯れたことを深く悲しみ、友人の漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して建てた碑です。

 

 


音無橋
音無橋
音無さくら緑地 吊り橋
音無さくら緑地 吊り橋

8.音無親水公園

 

石神井川(音無川)は音無橋の北側から王子神社と飛鳥山の間の狭い谷間を抜け、線路の下をくぐって東南に流れていました。

 

道路が舗装されて雨水が一挙に石神井川に流れ込み氾濫するようになったので、音無橋の上流部にバイパス水路トンネルを造り、ここから飛鳥山の下を通して王子駅の向こう側へ流れ込むようにしました。

 

この工事でカットされた旧川筋を整備したのが昭和63(1988)年に開園した音無親水公園。

河畔に茶屋が並ぶ江戸時代の情景が目に浮かびます。

 

 

 (音無橋)

王子権現の近く、石神井川に架かったアーチ型鉄筋コンクリート橋、昭和4年12月に起工し、同6年1月に竣工しました。

これにより、王子町と滝野川町を繋ぎ、交通の便が図られました。

 

渋沢栄一は音無橋について、建築や音無橋開通式協賛会へ支援をしたようです。

 

 

(音無さくら緑地)

昭和53(1978)年の石神井川改修の護岸工事で、U字に蛇行していた流れを直線に付け替えたために旧川筋が消滅、その後を整備したのがこの緑地公園です。

 

都内では珍しい吊り橋が架かっています。

吊り橋は平成7(1995)年にかけ替えられたもので、吊り橋の下をくぐると左手は樹木の繁る旧川筋の渓谷となっています。

川の底を歩いているわけでちょっと不思議な感じです。