長浜は戦国時代、羽柴秀吉が長浜城の城下町として、整備して以来、湖北地方の中心地として栄えました。
戦国時代といえば、「鉄砲」ということで、先日、NHKでも放送された鉄砲鍛冶の町 国友村の由来を知りたくて訪れました。
期待に胸膨らませて、いざ出陣!
1.浜離宮恩賜庭園
寛永年間(1624~1644)まで、この地は徳川家一門の鷹狩場で一面、葭原が広がっていました。
三代将軍家光の三男で甲府を領した徳川綱重が承応3(1654)年、後に甲府浜屋敷と呼ばれる別邸建設に着手します。
その後、綱重の長男綱豊(家宣と改名)の六代将軍就任後、徳川将軍家の別邸となり「御浜御殿」と呼ばれました。
維新後は浜離宮となり、明治2(1869)年に迎賓施設の延遼館を建設します。
その後、関東大震災・第二次世界大戦の空襲によって建築物はすべて焼失し、多数の樹木も損傷しました。
終戦直後、昭和20(1945)年11月に東京都に下賜され翌年開園しました。
かつて江戸には海水や河水を引き入れた庭園として、明治以降も清澄庭園、旧安田庭園、芝離宮などは外部と水を循環していました。
ところが埋め立ての進行や水位調整の面倒さなどから現在、海水を引き入れているのはこちら浜離宮のみです。
潮入の池の周囲に配された石にはフジツボが付着し、カニやフナムシを見ることが出来ます。
1.紀尾井町の名前の由来
江戸時代、このあたりには紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(現 東京ガーデンテラス紀尾井町周辺)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(現 上智大学一帯)、近江彦根藩井伊家中屋敷(現 ホテルニューオータニ一帯)がありました。
紀尾井町の名前は、(紀)伊徳川・(尾)張徳川、彦根(井)伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。
[紀州徳川家]
徳川家康の十男、徳川頼宣に始まる家で、8代将軍 徳川吉宗や14代将軍 徳川家茂を輩出した徳川御三家の一つ、唯一将軍を輩出した徳川御三家です。
[尾張徳川家]
徳川御三家の一つで、家康の九男、徳川義直に始まる家です。
かつては徳川御三家の中でも一番の石高を誇り、御三家の筆頭でしたが、将軍継嗣問題で紀州の吉宗に敗れたこともあって、その後は勢いを見せなくなります。
[彦根藩井伊家]
江戸幕府の譜代大名の筆頭として、徳川四天王の一つと言われていました。
井伊家で有名なのは、幕末で大老を務めた井伊直弼。
直弼が行った安政の大獄によって、橋本佐内、吉田松陰、水戸藩士など多くの人が粛清されましたが、それがもとで、桜田門外で暗殺されました(桜田門外の変)。
1.芝といえばやはり「東京タワー」
このあたり、どこにいても見ることができます。
東京タワーは1958年12月23日竣工。
私と同い年なんですね、だからかもしれませんが、スカイツリーよりも東京タワーに哀愁を感じます(笑)。
昭和の時代や東京という地理的背景を説明するためのシンボルとして、さまざまな小説やALWAYS 三丁目の夕日などの映像作品の中に登場しています。
今回は赤坂~虎ノ門周辺に残る江戸情緒を巡る散歩。
港区と言えば、お洒落な雰囲気を想像しますが、しっかりと江戸時代の遺構が残っていました。
1.山脇学園「武家屋敷門」
大都会赤坂のど真ん中に武家屋敷門??
これは江戸城大名小路(現丸の内東京郵便局付近)にあった老中屋敷の表門。
文久2(1862)年の火災後、当時、老中だった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)により再建されたもので、当時は五十八間(約120m)にも及ぶ長大な長屋門でしたが、左右両側が切り縮められ、門と左右番所のみが移築されています。
数少ない江戸城下の大名屋敷遺構の中でも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式を持つ珍しい遺構です。
山脇学園のホームページを見ると、千葉県九十九里町の山脇学園 松籟荘内にあった「重要文化財 武家屋敷門」を本校建て替え工事に合わせて、平成26年12月より赤坂の本校敷地内に移築工事が始まり、9月末に竣工式が行われたとありました。
始業式などの節目の行事の際は、生徒たちはこの武家屋敷門から登校し、新たな決意を胸に襟を正してこの門をくぐるそうです。
新型コロナウィルスの影響で、3ヶ月ほど休止していたぶらっと散歩を再開することにしました。
今回は上野から日比谷線で一駅の入谷駅からスタートし、山手線で乗降客が一番少ない鶯谷まで歩きました。
1.旧陸奥宗光邸
陸奥宗光邸と言えば、その一つが私の大好きな清澄庭園近くの隅田川沿いにもあって、そこには明治5(1872)年から同10(1877)年まで住んでいました。(現在、ここは看板が立っているだけ)
そして、陸奥は明治5年、新橋で芸者をやっていて、その美貌が有名だった亮子と結婚しました。
その後、陸奥は、明治11(1878)年に西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁固5年の刑を受け投獄されます。
明治16(1883)年1月に出獄したあと、同年9月に取得したのがこの邸宅です。
まだ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
明治17(1884)年4月から明治19(1886)年2月まで、陸奥はロンドンに留学します。
その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称された亮子と子供たちがこの家で暮しました。
そして陸奥は留学から帰国して、明治20(1887)年4月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては、都内で最も古いものの一つです。
陸奥家との関りを示すものとして、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
明治40(1907)年頃、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)としてここを買い取ります。
現在も、この家にはご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。
というわけで、この邸宅の中を見ることは残念ながら出来ません。。
新型コロナウィルスの影響で、現在、ぶらっと散歩は休止中ですが、過去に歩いた場所をまとめてみることにしました。
まずは、「本郷」。
ちょっと前までは、東京大学の学生たちが住んでいた下宿屋が数多くあり、東京のど真ん中ですが、何となくゆったり時間が流れているように感じる街です。
東大周辺に残る江戸時代の大名屋敷跡や明治の文豪たちが住んだ街の痕跡を巡りました。
1.東京大学赤門「加賀藩前田家 御守殿門」
加賀藩上屋敷は慶長10(1605)年に和田倉門外の辰之口に与えられていましたが、大坂の陣後、元和2(1616)年頃、本郷に屋敷地を拝領、これを下屋敷とし、辰口は上屋敷としました。
その後、明暦の大火で辰口邸が焼失、代わりに筋違御門外(現秋葉原付近)に上屋敷を、駒込にも屋敷地を拝領しました。
しかし、筋違邸も天和2(1682)年の大火で焼失、翌年、本郷の屋敷を上屋敷、駒込を中屋敷、延宝7(1679)年に拝領していた平尾(板橋宿隣接)の屋敷を下屋敷としました。
本郷屋敷の赤門はもともと15mほど奥の位置にありましたが、大学構内整備のため、明治36(1903)年に現在地に移設されました。
この赤門が東大の正門かと思いきや、正門は別にあります。
赤門のように江戸時代の面影を持ったものではありませんが、立派な作りです。
赤門前で写真を撮る方は多いですが、こちらは少ないようです(笑)。
今週末に迫っていた題記のイベントはコロナウィルス拡大に伴い、中止(延期)としました。
昨夜のニュースを見ても、その拡大ペースが、止まりそうになく、数々のイベントが中止に追い込まれています。
現状、その治療法が確立されていない状況では、感染を少しでも防ぐためにはやむを得ないかと思います。
実は昨日の朝までは実施する方向で調整しており、当日、配布するマスクを購入しようと10軒以上まわりましたが、全く入手できませんでした。
まるで、昭和のオイルショック時、トイレットペーパーが世の中から消えたときのようで、肌身でその異常を感じました。
そこで、刻々と変わる情報を耳にしながら、冷静に、どうすべきか考えました。
ぶらっと散歩を考えた時のコンセプトは下記3つの「わ」でした。
①「話」散策しながら新しい街を発見、思わず会話もはずむ
②「和」人に教えたくなるような食べ歩きやお店の食事で、和んでくる雰囲気
③「輪」そして新たな仲間の輪が拡がる
参加者の皆さんが大きな口を開けて笑いながら、街歩きや食べ歩きを楽しみ、ランチ懇親会では、お酒を飲みながら仲間作りをする。
そんな会を目指してきました。
しかし、当日、マスクをしながらの街歩きでは、上記の「わ」を楽しむことができないと判断し、苦渋の決断となりました。
今回は、リリース早々に定員一杯になるほど参加希望をいただき、本当にありがとうございました。
にもかかわらず、直前になって中止とし、参加を予定下さった方には大変なご迷惑をおかけすることになってしまい、誠に申し訳ありませんでした。
次回は3月20日の実施を目標に、企画(江戸城跡)をまとめていましたが、現状ではまだ難しい状況です。
いずれまた世の中が落ち着いたころ、改めて今回のイベントも実施するつもりなのでよろしくお願いします。
1.代々木公園「東京五輪選手村記念碑」
代々木公園は江戸時代、加藤清正の子孫の屋敷地を、当時の彦根城主井伊直孝が拝領しましたが、明治の終わり頃には陸軍の練兵場となりました。
そして第二次世界大戦後は連合国に接収され、アメリカ軍将校家族宿舎「ワシントンハイツ」が建設されていましたが、その後、日本に返還され、その跡地に第18回オリンピック大会(昭和39)の選手村が設けられました。
敷地面積は約66万平方メートル、5,900人を収容できる施設で、
当時、ここ以外では八王子、相模湖、大磯、軽井沢などの分村が作られ、競技によってはそちらの選手村が利用されたそうです。
オリンピック終了後、造成工事に着手し、昭和46年、代々木公園としてオープンしました。
武家屋敷から練兵場、そしてアメリカ軍家族宿舎、オリンピック選手村、そして現在の代々木公園に至る江戸時代から昭和の変化は、まさに激動の連続でした。
娘と一緒に帰京の途中、彦根でぶらっと途中下車。
彦根城は娘も私も初めて。
天守が国宝指定された5城の一つ。
(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)
期待に胸膨らませて、いざ出陣!
《新年初の街歩きは文京区(水道橋~本郷~本駒込》
2020年明けまして、おめでとうございます。
新年初のぶらっと散歩は文京区を歩いてみました。
八百屋お七は目黒、忠犬ハチ公は渋谷など、既に文京区以外で歩きましたが、今回はこれらの文京区に残る史跡を巡りました。
また、本年もよろしくお願いします。
1.東京大学 弥生キャンパス農学資料館「上野英三郎博士とハチ公」
秋田県大館市で生まれた秋田犬のハチ公は生後間もなく、東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に贈られました。
上野博士は精一杯このハチ公を可愛がり、当時、駒場にあった農学部への通勤や出張の際は渋谷駅まで送り迎えをさせたそうです。
当時は飼い犬でもつないでなかったのですね、自由に犬が街を歩いていたようです。
学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んでいました。
上野博士とハチ公の楽しい時間はそんなに長くはありませんでした。
1年半後、大正14(1925)年5月21日、博士は大学構内で急死してしまいます。
それから、ハチ公は死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の帰りを待っていました。
生前、博士が長期出張から帰ってきたとき、渋谷駅の改札口で待っていたハチ公が博士に飛びついて、じゃれ合っている様子がこの銅像です。